マダラが里の中心部に向かってのんびり歩いていると、朝靄にかすむ街の上空で、聞き慣れぬ鳥の声がした。鴎が一羽飛んでいる。海のほうから山のほうへ向かって。
「珍しいな」
 見上げてマダラはつぶやき、思わず海の方角を振り返った。
 鴎は嵐を連れてくる。
 朝焼けにきらめく空の果ての、見えるはずのない雷雲を見た気がした。

**********

 この季節、マダラの家から里の中心部まで、夜明けとともに出てゆっくり歩けばちょうど里全体が目覚め始める時間に着く。にわかに動き出した往来に乗って、公務を行う庁舎に向かう。
 庁舎の中に人の姿は疎らだ。規定の時刻までは、まだずいぶんと猶予がある。マダラは執務室の鍵を開ける。その作業は自然とマダラの当番のようになっていた。マダラは極力仕事場には泊まらないが、忙しい時期は朝来ると徹夜明けの扉間がいたりする。マダラを含む一部の人間には、勤務時刻の縛りはない。マダラは早く来て人のいない間に作業し、会議がなければさっさと帰るのが好きだった。最近は特に、柱間に会いたくないから。近頃マダラは、柱間がいるとなんだか調子が悪いのだった。
 マダラは自分の机の上の書類を整理する。これは集中できる朝のうちにやる、これはダレたときに手癖でやれる反復作業、これは扉間に確認してからでないと処理できない、エトセトラエトセトラ。
 ひととおり書類を眺めると、仕事を始める前にマダラは廊下に出た。窓を開けると、冬の冴えた空気が流れ込んでくる。遠くの山々、そして街並みを見渡し、窓の真下に目を落とすと、柱間が誰かと立ち話をしている。今日は少し早いな、とマダラは忌々しく思った。
 柱間はマダラの知らない少女と、その母親とおぼしき女と談笑している。きっと声をかけられたのだろう。少女が頬を紅潮させて何がしかを精一杯柱間に伝えている。母親はそれを諌めながらも浮き足立っているのが遠目にもわかる。マダラはふっと頬を緩めた。
 柱間はみんなの人気者だ。みんな、柱間がだいすき。
 みんなの柱間。
 マダラは窓の桟に腕を乗せて、だらしない立ち姿で柱間を見下ろした。柱間は少女の訴えを微笑みながら聞いていて、ときおりなにか可笑しなことがあったのか破顔する。そのときの表情は昔から変わらない。はじめて会った頃から。
「みんな、か」
 マダラはため息まじりに呟いた。
 みんなって誰だ。
 そのとき、耳元でぴしり、と何かがひび割れるような音がした。
 それを聞き咎めて、マダラは窓枠に凭れていた体を起こした。次の瞬間、窓ガラスが和紙のように柔らかくしなり、粉々になるのを、マダラはやけにのろのろと進む時のなかで見た。
 呆然としていると、地上から少女の悲鳴が聞こえ、マダラは我に返った。
「柱間!!」
 壊れた窓の隣から顔を出して叫ぶと、柱間が顔を上げた。腕を大きく振って、大丈夫だ、とこちらに示す。少女は突然降ってきたガラスの破片に驚いただけで、幸い怪我はしていないようだ。ほっと胸を撫で下ろし、マダラは外階段を駆け下りた。
「柱間!」
 しゃがみこんで少女をなだめる柱間に駆け寄ると、柱間はすっくと立ち上がりマダラと目を合わせる。
「窓になにかぶつかったのか?まだ朽ちるはずはないしの」
 なんの邪推もなく窓枠を見上げる柱間を見て、マダラは言葉に詰まった。
 あれは俺がやった。
 マダラにはその確信だけがあった。しかし、なにひとつ説明できることはなかった。結局マダラはなにも言わなかった。

 柱間が早く来た上に外出の予定がなかったため、マダラは不機嫌だった。
 マダラが詰める執務室には基本的に柱間と扉間と自分の三人しかいない。報告に上がる人の出入りはあるが、デスクはない。柱間は不在のことが多いが、その方がいっそ気が楽だということにマダラは気づいていた。柱間がいるところで扉間と会話するのは余計に神経を使う。柱間がいると、扉間がその空間に気を使っているからかもしれない。自覚があるかどうかは知らないが。
 今日はもうやめにしよう。火急の案件を処理し終えて、昼過ぎにマダラは席を立った。扉間が咎めるような目でマダラを見上げた。マダラも睨み返すが、扉間は何も言わない。
「…さっき確認したぶんは、家でやる」
 沈黙に耐え兼ねてマダラはつい口を開いたが、なんだか弁明じみてしまって不服だった。
「マダラ、大丈夫か?」
 二人の空気に気づいているのかいないのか、柱間がマダラのそばに来て手を取った。
「今日はゆっくり休め」
 柱間の労わるような顔を近くで見ていると、マダラは心臓が早鐘を打ち、頬が熱くなるのを感じた。
 そんな顔で見るな!!
 マダラは心の中の、声にならない声で柱間を糾弾した。そのときだった。
「うわっ」
 扉間の斜め後ろに鎮座していた、飾りの壺が爆発した。思わず声を上げた扉間は、反射的に身構えた姿勢のまま硬直している。

 火の気はなく、突然壺自身が膨らんで破裂したような現象だった。カラカラという、出遅れた破片の転がる音が室内にやけに大きく響く。
 三人は言葉もなく、呆然と無数の欠片と化した壺を見つめていた。
 あやしい輩の気配はないし、この部屋に罠の仕込まれた物品など運び込まれるはずがない。柱間の出入りする部屋は第一級の警戒態勢の下で守られている。だいたい、それをくぐりぬけることのできた者の所業にしては、これはあまりにもお粗末ではないか。説明のつかない怪現象に、柱間がまず声を上げた。
「お、おばけの仕業か?!」
「いや、まさか…しかし」
 扉間は席を立って壺のかけらの山を探り、適当にひとつ手に取り光にかざした。
「その可能性は否定しないが」
「そんな!!」
 脅かすように言う扉間に、柱間は青ざめた表情を浮かべた。
 二人がなんのかんのと言い合うのを、マダラはもはや聞いていなかった。
「帰る」
 それだけ言って踵を返す。不穏な疑惑の持ち上がった部屋に取り残されるのを嫌がる柱間が、引き留めるようなことを言っていた気がしたが無視した。


 マダラは家に帰ると、まっすぐに寝室に向かった。無駄を一切排除した動きできびきびと布団を敷くと、着替えもせずに床に就いた。夢を見るために。
 目を瞑っても、まだ昼下がり。瞼の裏まで障子の向こうの光が染み入ってくる。それでもマダラは必死に目を瞑り、心の中で名前を呼んだ。

 イズナ。イズナ!

 イズナ!!



 まぶたの向こうの光の気配が消え、肌に触れる空気が変わったのを感じた。
「また来たの?」
 誰のそれよりも耳に馴染む声がして、マダラは目を開けた。
「最近多くない?」
 イズナはからかうように言う。
 ここは月だ。夢の中の月の上。
 イズナとマダラは月の白い地べたに足を伸ばして座っている。
「今日どうしたの?」
 イズナの顔を見て、気の抜けたマダラはうなだれた。そんな兄の様子を見て、イズナは口の横に手をやり、中空に向かって大声を出した。
「おちゃ~~!」
 聞き入れる者のいないと思われた声は、しかし誰かに届き、忽然と目の前に湯気の立ち上る湯のみがふたつ現れるのだった。イズナは湯のみを手に取ると、はい、とそのうちのひとつをマダラに差し出した。マダラは素直に受け取った。ちゃんと熱い。
 イズナとマダラはしばらく黙って緑茶を飲んだ。お茶をすする音だけが聞こえる。マダラは目の前に広がる宇宙を眺めた。眼下に青い星が見える。柱間のいる地球。
「まあ話したくなかったらいいけど」
 イズナは湯のみを地面に置いて、寝転がりながら言った。
 話したくないわけじゃない。マダラは思った。こうしてイズナと並んでお茶を飲んでいたら、なんだかもう、それでよくなってしまった。

**********


 その後も謎の物品爆発事件は続いた。周囲にとっては謎の。マダラだけが元凶を知っている爆発。
 あるときは漆塗りの小物屋の店先だった。マダラは仕事上がりにぶらぶらと商店街を歩いていた。夕暮れより少し早い時間。特に何を買うつもりもなかったが、その店の美しい小箱が目に留まった。手に取って眺めていると、店の親爺が出てきて声をかける。
「マダラ様!お目が高いですね。ちょうど先日、それと同じ装飾のかんざしを火影様がお求めになりましたよ」
「ふうん。かんざしを」
 柱間が。
 ふ~~~~~ん。

 そして、弄んでいた小箱が爆発した。

 目を丸くして固まっていた親爺だったが、買い取ると言うとすぐに商人の顔に戻り、いそいそと算盤を叩いた。示された値は、買いが決まってるからってふっかけてんじゃねーだろうな、と思うくらい高かったがマダラは言い値で払った。懐が寒くなり、帰り道の木枯らしがより一層身に染みた。

 またあるときは昼休みの庁舎の廊下で。鐘に縛られない身分のマダラにとっては昼休みではなかったが、所用で別の部署に向かうところだった。正午の鐘と共に事務室から吐き出された人々で溢れる廊下に、マダラは眉間にしわを寄せた。おしゃべりに花を咲かせながらトロトロと進むくノ一の一団を追い越そうとしたとき、その会話が耳に入った。曰く、火影様はかなり「イケて」いて、「結婚するならああいう人」がいいらしい。

 ドン・ファン!!
 背後で何かが爆ぜる音がして、女共の媚びたような余裕の悲鳴が聞こえたが、マダラは振り返らずに足音荒くその場を立ち去った。



「イズナ~~~~~!!」
 ある夜、夢の月の上で、マダラはついに音を上げた。腰に抱き着かれたイズナは、おおよしよし、とわざとらしく慰めの定型句を口にした。イズナに泣きつくなんて以前なら考えられなかったが、これはどうせ夢なのだ。マダラは醜態を晒すことにした。
「まあまあ、お茶でも飲んで」
 イズナがそう言うと、ミルクティーの入ったティーカップが現れた。マダラは決まり悪く居住まいを正すとそれを口にした。ミルクたっぷりのミルクティーを飲むと、荒んだ気持ちが和むのを感じた。そしてぽつぽつと最近の悩みの種である爆発事件のことを話し始めた。イズナはマダラをじっと見つめて真摯に聞いていたが、マダラが一息つくと口を開いた。
「うける~」
 あはは、と笑うイズナを見て、自分の中のイズナ像はどうなっているんだとマダラは訝った。
「笑い事じゃないんだが…」
 そう言うと、「あっそうなんだ」とイズナは本当に寝耳に水だというふうに驚いてみせた。そして静かなほほえみを浮かべて地球を見つめた。マダラは黙ってその横顔を見つめていた。
「兄さんさ、ここにはじめて来たときのことを覚えてる?」
 イズナは地球に視線を向けたまま問いかけた。マダラは記憶を遡るが、どうにもはっきりしなかった。
「ええと…いつだったか…」
 だよねえ、とイズナは言い、口角を引き上げた。その横顔が妙に大人びて見えて、マダラは不安になった。
「人間って、記憶とか心とか、自分の都合のいいようになかったことにできちゃうんだ。すごいよね。でも、それは別の形で噴出するんだ。たとえば、五感に異常が現れたり、体調がおかしくなったりする」
 マダラには、イズナの言うことがどのように自分の話につながるのかわからなかった。だから黙って聞いていた。
「わかる?」
 イズナがこちらに向き直って真剣な顔で尋ねるのに、マダラは正直に答えた。
「わからん」
 イズナは額に手を当て、ため息をついた。
「ここに来たときのこと思い出して。秒で」
 夢のイズナは本物より無茶を言うなあ、とマダラは呑気に思ってミルクティーを啜った。




**********

 そして迎えた年の瀬。毎日何かを爆発させる恐れと共に過ごしたマダラにとっては、月日の流れが妙に遅く感じられた。
 今日は一応の仕事納めの日だ。暦通りに動く部署は明日からおやすみ。
 そういう次第で、今夜はこの一年の人々の労をねぎらうという名目のもと、里の中心部にある集会場で宴が催されていた。酒宴は夜が更けてもなお盛況だった。マダラは柱間に引っ張られてしぶしぶ参加し(その過程でまた道端の松の枝が爆発した)、最初こそ次々酌に来る人々に応えていたが、いまや周りも前後不覚になっており、酒を注ぎに来る人間もいなくなった。死屍累々の様相を呈してきた宴会場にあって、誰よりも飲まされているはずの上座の柱間を見ると、真っ赤な顔をしてやたらと声がでかい。酔って声量調節機能がぶっ壊れている。マダラは頭にガンガン響く声にこめかみを押さえて、そっと広間を離れた。
 酒は嫌いじゃないが、宴会は嫌いだ。
 宴会場を少し離れると、敷地内に小さな森のような場所がある。生い茂る木々の吐き出す、夜露にしっとりと濡れた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。このままバックレちまおうか。夜風に当たりながらマダラは考えた。あの惨状では、断りもなく帰ったところで、誰も気付かないだろう。
「マダラ~!!」
「うわっ!」
 後ろから激突するように抱きついてきた熱いかたまりに、マダラは驚いて声を上げた。
「柱間!」
 マダラは振り返ろうとしたが、酔っ払いの手加減なしの力で抱き締められてできなかった。
「まだ帰るなよ」
 柱間が耳元で弱弱しく囁く。その温度、その湿度。
 マダラはカアっと顔に熱が集まるのを感じた。叫びだしたかった。もしかしたら叫んでいたのかもしれない。
 いずれにせよ、周囲の木々の幹が爆発する音で聞こえなかった。
 轟音を立てて木が倒れる中でも柱間はマダラにもたれかかってのんきにムニャムニャしていた。
「いい加減にしろ馬鹿!うわっ!」
 こちらに向かって木が倒れてくるのを、柱間を半ば背負うようにしてよけた。危機を回避すると、マダラはバンザイのポーズをして柱間を地面に下した。爆発は収まり、あたりには土煙が残った。柱間はマダラが落としたままに地面に寝ている。
「おい、起きろ!ここで寝る気か」
 柱間の頬を叩いて、手に滑る感触がありマダラははっとした。見ると柱間は頬を切って出血していた。ただのかすり傷だ。そう思うのに、それを見て視界がぐにゃりと歪んだ。マダラは何もかも捨て置いてその場から逃げ出した。

 こんなわけのわからない馬鹿みたいな力で、意図せず柱間を傷つけてしまうなんて。自分が嫌だ、こんなのは嫌だ!
 もう嫌だ!
 前後もわからずがむしゃらに走っていると、何者かにぶつかった。恐慌状態のマダラは、ヒッと息を呑むと、髪の毛をぶわっと逆立てて警戒した。
「マダラ!?」
 その者に名前を呼んで肩を揺さぶられてから、マダラはようやくそれが扉間だと認識した。騒音を聞きつけて様子を見に来たらしい。
「何事だ?」
 マダラは肩で息をしながら扉間の顔を見つめた。じわじわと恐怖が身体から引いていくのがわかった。深く呼吸を繰り返す。そのまま脱力し、扉間の腕に縋った。
「お前が…、柱間に、似ていなくて、よかった」
 いまだ整わぬ呼吸のあいまに、マダラは心底安堵してそう告げたが、扉間に「気色悪い」と言って体を引き剥がされただけだった。
「おぬし、ほんとにおかしいぞ」
 幽霊でも見るかのような顔で扉間が言った。




 その一件のあくる日から休暇だったのは、マダラにとって幸いだった。休みに入ってから、マダラは極力人と接触しないよう家にこもっていた。
 誰にも会わないでいると、マダラの症状は軽くなったように思えた。しかし、物思いに沈んでいると、ふと湯のみにヒビが入ったりするのだった。
 家でダラダラしていると、寝て過ごす時間が多くなり、マダラは毎日月のイズナの夢を見た。

「兄さん。これはね、現実逃避なんだよ」
 ある日の夢の中でイズナが立ってマダラを見下ろしながら言った。なんだか機嫌が悪そうだ。マダラはおしるこの入った椀(もちろんどこからか出現したものだ)に口をつけながらイズナを見上げた。
「耳を塞いでいるから聞こえないんだ。オレにはずっと聞こえてる」
 イズナはそう言うと、マダラの胸を指差した。
「チクタク、チクタクって。飛び出したくてずっとそのときを数えてる」
 チクタク、チクタク。イズナの歌うような声が止まっても、マダラの耳にはその音が聞こえた。
「…俺にはわからん」
「兄さん!」
 イズナは仁王立ちで腕を組んで、いっそうぷりぷりするのだった。

 そんなふうにして、マダラが休暇をのんびり過ごしていると、突然の来訪者があった。
 姿を見るまでもなく、マダラには玄関先に立つ人物が誰かわかった。柱間だ。
 柱間に会ったら絶対爆発する!
 これまでの爆発の状況からマダラはそれを自覚していたため、慌てて万年床から抜け出した。寝起きの頭のまま庭の裏口からこっそり家を出た。つもりだったがすぐにバレた。
「マダラ!」
 後ろから追いかけてくる声と足音に、マダラは全力で駆け出した。
「引きこもっとると聞いたぞ~!なんか知らんが大丈夫か~?!」
 誰か知らんが余計なこと言いやがって!
 マダラは胸の内で毒づきながらとにかく人のいない方へと走った。
「うるせー!こっち来んな!!」
「うちに遊びに来んか?!おせちもあるんぞー!煮しめもあるぞー!」
「いらねーよ!てか煮しめ特別好きじゃねーよ!」
 二人して大声で言い合いながら砂利道を抜け林を抜け森を抜け、ついに里の端の崖っぷちまで来た。マダラは崖の際に沿って走り出したが、ついにその手を捕らえられた。
 柱間にぐいと手を引かれ振り返る。柱間の顔を見て、手のひらの熱を感じてしまうと、もうダメだった。渾身の力で手を振り払ったが遅かった。
 ごごご、という地響きがして、柱間の足元の崖が崩れた。
「あれっ」
 柱間は間抜けな声を残してマダラの視界から消えた。


**********



 夢の中の月には、大きなプールができていた。月の地面に大きな穴のように広がる四角いプール。たくさんの赤いクランベリーの実がぷかぷかと浮かんでいて、水面は真っ赤に染まっている。イズナとマダラは、クランベリーの実にまとわりつかれながら水の中を漂っていた。足のつかない深いプールのなかで、立ち姿勢を保つために手を動かしていると、クランベリーが体の周りを惑星のように円を描いて同じ方向に回る。マダラとマダラの周りの惑星と、イズナとイズナの周りの惑星の軌道は、決して交わることはない。夢の中の月は、寒いことも暑いこともない。さっきまで吐く息が白くなる冬の空気だったのに、夢の中では水の中にいても少しも寒くはないのだった。
 水中を漂いながらくつろいだ様子のイズナは、水面で大きく口を開けて、クランベリーの実をたくさん飲みこんだ。
「汚いだろ」
 マダラが咎めると、イズナはむっつりと黙り込んで、クランベリーの実を鷲掴むとマダラに投げつけた。
「こら!食べ物を投げるんじゃない」
 イズナはふるふると肩を震わせると、マダラに向かって怒鳴った。
「も~!ほんといい加減にして!オレにはここしかないの!兄さんはそうじゃないでしょ!」
 マダラが面喰っていると、イズナは一人でプールから上がってしまった。
「兄さんの現実はあっちでしょ」
 マダラはイズナの指差すほうを見た。青い星。
「現実?」
 マダラが鸚鵡返しにすると、イズナがじっと見つめてくる。その眼がクランベリーのように紅くなる。
「思い出して」


**************


 マダラがはじめてイズナの月の夢を見たのは、里の為政も組織化が進み、マダラや柱間に集中していた負担も少し軽くなった頃のことだった。
 二人は、ようやくできた自由な時間で、マダラの家の縁側に並んで腰掛けてお茶を飲んでいた。秋の始まりの昼下がり、陽の光がやわらかく庭を照らし、木の葉たちをきらきらと輝かせている。遠くから、駆けまわる子どもたちの笑い声や、鳥の伸びやかな歌声が聞こえる。絵に描いたような穏やかさだった。ゆったりと流れる時間に身を任せ、マダラはいつの間にかうたた寝をしてしまっていた。
 目を覚ますと、陽が少し傾いていた。何をしていたのだったか、寝起きのぼんやりとした頭で思い出そうとする。視線を感じてふと顔を上げると、目が合った柱間が柔らかく微笑んだ。隣に座る柱間に、肩を抱かれて支えられているのだと気付く。起こすでもなく、長い時間そうしてくれていたのだと思うと、マダラは胸に暖かい光が灯るのを感じた。
 そんな自分にマダラは動揺した。そしてそれが過ぎ去ると、今度は絶望的な気持ちになった。惨めだと思った。
 柱間は誰にでも優しい。誰であろうと手を差し伸べる。きっとそれが、草木でも犬猫でも、目の前でよろめくのであればなんにでも。
 そんな柱間に優しくされて、それを喜ぶ自分は、あまりにも惨めじゃないか?

 お前のそのだらしない優しさが許せない。

 そう烈しく想ったとき、マダラの胸に灯った光は一瞬にして黒く濁った。

 そしてマダラは心に蓋をすることにした。深く穴を掘り、念入りに土をかけてその心を埋葬した。

 ただ認めたくなかったのだ。  柱間にはたくさんいる。自分には柱間しかいない。そのことを、マダラの高すぎるプライドが許さなかった。


 その夜眠りに就くと、初めてイズナのいる月に来ていたのだ。
 マダラは月の白い地面に足を伸ばして、後ろに手をついて座っていた。少し後ろにイズナが立っている。歩いて半日で一周できるほどの小さな月の上には二人しかいない。
「兄さん、後悔してない?」
 イズナは後ろから問いかけた。
「まさか」
 マダラは遠くの地球を見下ろし、フフン、と鼻で笑って答えた。
 イズナはしばらく沈黙したが、やがて眉を下げてため息まじりに笑った。
「だよね」


  **********


 マダラはハッとして周りを見回した。クランベリーのプールだ。自分を取り囲むたくさんの赤い眼と見つめあった。そして最後に月の大地に立つイズナを見上げた。イズナは宙からするすると降りてきた金糸を編んだ紐に手をかけ、静かに微笑んだ。
「もう時間だね。兄さん」
 イズナがそう言って紐を引くと、プールの底がぱかっと抜けて、マダラは水と赤い実と一緒に、月の反対側から宇宙に放り出された。


 イズナ!!!!
 月に手を伸ばして、そう叫んだつもりだった。しかしもう身体がなかった。

***********

 柱間を追いかけて、マダラは崖の端を蹴り、キヨミズの舞台から飛び降りた。
「柱間!」
 マダラは落ちてゆく柱間に手を伸ばした。驚いたような顔で、それでもやはり自然にこちらに手を差し出す柱間を見て、マダラの胸が痛んだ。

 お前といると俺は惨めだ。お前といると寂しい。お前がいると、疲れてくたくたになる。それでも。

 プライドが砕けたら生きてはいけないと、ずっと思ってきた。俺は今日この場所で死ぬのかもしれない。マダラはぎゅっと目を瞑った。
 心の爆弾のチクタクと時を刻む音が止まった。もう限界だ。ごうごうと耳元で唸る風に負けないように、大きく息を吸い込んで、声の限り叫んだ。

「お前が、好きだ、あいしてる!!柱間!!」

 剥き出しの心をぶつけられた柱間は、一瞬瞠目した。そして次の瞬間、生娘のように真っ赤になった。たくさんの木蓮の花が、ぽぽぽ、と二人の周りに溢れた。木蓮の花は風に煽られて二人の周りを踊る。
 もうすぐ柱間の手に触れるというところで、マダラは躊躇って手を引っ込めた。触れればまた、傷つけてしまうかもしれない。その手を柱間が強く引き寄せて、マダラの体を抱きしめた。もうそこに爆ぜるものは残っていなかった。
 木蓮の花は何もないはずの空中に、泉のように次から次へと湧いてくる。紫、白、ピンク。二人は色とりどりの花たちの嵐に包まれて、他には何も見えなくなった。
 降り積もった花の絨毯の上に二人は落ちた。地に落ちた木蓮の花が衝撃でふわりと舞う。マダラは柱間に抱きしめられたまま、暖かな地面に背を付けていた。柱間の肩の向こうに、なおも空から降り注ぐ木蓮の花が見える。そして、遠くでかすかに光る真昼の月も。
 ここは月じゃないんだ。その光のこんなにも遠いことを知って、マダラは純粋な驚きとともに実感した。
 この背中に感じる現実。柱間のいる、青い星の大地。
 柱間はマダラの上から退くと、嵩を増し続ける花の大地の上に座り込んだ。マダラも起き上がった。何も言えずに二人は見つめ合った。頬を染めた柱間が、耐え切れなくなったように、ふふっと笑った。柱間が笑うと、ぽぽぽぽ、とたくさんの木蓮の花がどこからともなく湧きでて、地面にぽろぽろと落ちる。その様を見て、マダラも頬が熱くなるのを感じた。  胸が痛くなるほど、柱間が愛しい。無視しても生き埋めにしても、決して消えてくれなかった感情。それを認めてしまうと、あれほど大事に守ってきて粉々に爆破されたプライドも、もう惜しくない。マダラは思った。
 きっとこれからも、俺は寂しい。俺は柱間の特別じゃない。そのことが、きっと何度も嫌になる。
 それでもどうせ、何度でも好きになる。この笑顔を見るたびに。
 マダラは柱間と一緒になって笑った。ずっと自分を支えてきたプライド、そしてそれに縋っていた過去の自分との別れに、ほんのすこしの感傷、それから清々しさを覚えながら。




 月のイズナは、首にタオルをかけて片膝を立て、螺鈿の装飾の施された華奢なオペラグラス越しに地球を見下ろしている。ときおり、かたわらの宝石のようなマカロンを口に運ぶ。そのうしろには、お菓子の箱が山と積まれている。それぞれに宝石箱のように意匠を凝らされたキラキラの箱たち。イズナはオペラグラスから目を外すと、虚空に向かって叫んだ。
「グランデノンファットミルクノンホイップチョコチップバニラクリームフラペチーノ~~~!!」
 呪文に応えて、目の前の白い地面にスタバのプラスチックカップが降ってくる。イズナは当然のようにストローに口を付けて、また地球観察を続ける。
「いつまでもここに居られたら、オレも窮屈なんだよね」
 好き勝手できる状態を思うさま満喫しながら、イズナはひとりごちた。グラス越しに見える、柱間と笑い合う兄は、いい歳をしてなんだか初々しい。さてどうなることやら。イズナは可笑しそうに呟いた。
「あっ、あいつ!」
 イズナは地上に何かを見つけると、食べかけのピンクのマカロンの残りをポイっと口に放り込み、オペラグラスを覗いたまま片手で地面を探って石ころを掴んだ。
 ペロリと唇を舐めて、石をタシタシと手のひらの上で弾ませ、感触を確かめる。そして振りかぶる。
「えいっ!」
 白く滑らかな月の小石は、きらきらと輝く尾を引きながら地球めがけて落ちていく。流星のように、天使の矢のように。
 オペラグラスでその軌道を見守っていたイズナは、しばらくすると「よっしゃ!」とガッツポーズを決めた。




 扉間は、文字どおり花を飛ばしながら仲睦まじそうに向かい合う兄とマダラを、崖の上から見下ろして閉口した。
 遠目に見かけたやかましい二人を、心配して追いかけて来て損した。馬鹿馬鹿しい。ゲンナリしてため息をつくと、頭の上に何かが落ちてきた。
 こつん。
 扉間は頭に当たって地面に落ちた石を見て、空を見上げた。そこには霞んだ真昼の月が浮かんでいるだけだ。首を捻りながら石を拾い上げる。白くさらさらとした手触りのいい石を、なんとなく捨てることができず、扉間はポケットに入れた。そして、一足先に春がやってきた二人を置いて、冬の街へと戻っていった。





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柱間爆誕オメデトー!
作業中のBGMは『愛のバクダン』B'z(タイトルにもしちゃった!)/『エクストラ・マジック・アワー』AKINO with bless4 でした!
2015.10.23

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