ねんねんころり ねんころり
 おねむりなさい いとしい子

 心を通わせ合った意中の相手との付き合い方について、期待した通りかというと、とてもそうとは言えない。こちらの眠りを誘うべく、子守唄を口にしながら、心地よいリズムと重さでシーツを叩いている男をダンテスは見上げる。

 愛されるよりも、愛を注ぐことで精神の安定を得られる種類の人間がいる。サリエリはそういった気質の男だったということだろう。


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 元来情緒不安定な存在であったが、恋人という枠に収まってからは、サリエリは不安定なときはダンテスの元を訪れるようになった。幽鬼のように部屋にやって来たサリエリの望むことが、最初ダンテスには見抜けなかった。陰鬱な雰囲気を放ちながらベッドの端に腰かけ、そのまま動かない彼を、甘やかしてやろうかとさえ思ったほどだ。とんだ見当違いだった。
 隣に腰かけ、サリエリを労わろうと思ったダンテスに、ゆらゆらと自己の内面に沈み込んでいるように見えたサリエリは、キッと決然とした目を向けた。ぎゅっと口をつぐんで、何らかの強い意志を秘めている様子に、ダンテスが唖然としているあいだに、彼はぐいぐいとダンテスをベッドに押し込んでしまった。ふうわりとシーツを掛けて、ダンテスの身体をすっかり布の中に収めてしまう。首だけを出したダンテスの隣に、自分はシーツの上から寝ころぶと、サリエリはどこか満足げな吐息を漏らした。
「眠いだろう?眠るといい」
 いや、まったく眠くないが。その本音が舌先まで来ていたが、サリエリの口調には、それを許さない、有無を言わせぬ圧力があった。病んだ女の凄味に似ている。思わずそんな、絶対に他言できない全方位に無礼な感想さえもダンテスは抱いた。ダンテスが何も言えずにいると、サリエリはシーツの上からダンテスの身体をとんとんと撫でた。大きな手のひらは、心地いい重さをしてはいた。それからサリエリは、手のリズムに合わせてゆっくりと歌いはじめた。聞いたことのない歌だ。しかし、明らかに子守唄だ。ダンテスは、無論まんじりともせず、この奇怪な空間に身を横たえていた。これが一体どういう儀式なのか、まだ皆目見当がついていなかった。
「寝たか?」
 歌が途切れ、サリエリが尋ねた。寝ていたら返事をするわけがないだろう。そうダンテスは思った。しかし、次の瞬間に理解した。これはロールプレイなのだ。彼は本当は、ダンテスが子守唄で眠るような幼子ではないことをちゃんとわかっている。彼は、愛を注ぐ者という役割を演じることで、帰属意識を満たし、平穏を得ようとしているのだ。もしかすると、在りし日の父、あるいは教育者としてのサリエリの記憶の断片に身を寄せ、安寧を手繰り寄せようとしているのかもしれなかった。
「……寝たぞ。寝てる」
 ダンテスはあからさまな嘘をついた。瞼すら閉じなかった。しかしそれでも、サリエリはその答えに満足したように、穏やかに微笑んだ。その微笑みは、父のようにも、母のようにも、また少女のようにも見えた。
 これはままごとだ。ダンテスは、そうしたいときにいくらでも甘やかし、慈しんでもいい愛情対象だとサリエリに認識されたのだ。ダンテスは勿論、釈然としないものを覚えなかったわけではなかった。この愛のポーズは、自分に向けられたものではない。自分はぬいぐるみのようなものだ。それになにより、彼にはもっと格好をつける心づもりがあった。付き合いはじめ、もっとも夢見がちな時期である。従って、彼はけっこう不満であった。
 しかし。ダンテスは、サリエリの安らかな微笑みを見て思った。他の誰かに同じことをされるよりは、自分がぬいぐるみにされるほうがマシだと。

 またあるときは、泣きそうに張りつめた空気でダンテスの部屋に来たかと思うと、ひとことも口を利かずに部屋を掃除しはじめた。サリエリのごっこ遊びに慣れつつあったダンテスには、なんとなく意図が理解できた。「こんなに散らかして、仕方ない子ね」といったスタイルのままごとがやりたいのだ。今日はそういう方向性なのだなと、ダンテスはバリエーションの豊富さに密かに可笑しい気持ちになりながら、ぱたぱたと動き回るサリエリを好きにさせた。しかし、ダンテスの部屋は、サリエリのごっこ遊びの期待に応えられるほど混沌としてはいなかった。むしろ整然としていた。すぐに手持無沙汰になったサリエリがどうするのかと、煙草を吸いながら眺めていると、衣装箪笥をひっくり返し――霊衣を纏っている以上必要ないものだが、彼らのマスターは、そのサーヴァントたちが余計なものを蒐集したり、娯楽を得たりしていることに満足するようだった。マスターの自己満足を叶えてやるために、ダンテスもいくらかの衣類を蓄えていた。実際に身に着けたものはほとんどなかったが――衣類を一枚一枚畳み直し始めた。ハンカチーフやスカーフや靴下を、ちまちまとひとつずつ畳む単調な作業を続けるうちに、サリエリの精神は大分上向いたようだった。その口から自然と旋律がこぼれ落ちる。聞いたことのないお伽歌だ。それなのに、どこか懐かしく感じた。
 歌いながら、色とりどりの衣類を畳んでいくサリエリは、押し花や折り紙をこさえる少女のように見えた。押し花や折り紙、そういう、使い道のない、可憐なだけの無為な物を。
 サーヴァントに無駄とも思える娯楽を享受させたがるマスターの気持ちが、理解できた気がした。無駄ということは、ぜいたくなのだ。
 甘やかされるという形で、甘やかす。それも結構なことではないか。なぜかそのときはそう思えて、穏やかな心地でサリエリを見守っていたダンテスだったが、彼の手が下着の入っている引き出しに伸ばされたときは全力で止めた。ほとんど未使用だったが、気持ちの問題だ。


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 ねんねんころり ねんころり
 おねむりなさい いとしい子

 この子を誰にあずけよう?

 魔女にあずけたら
 一週間は生きていられるでしょう

 黒い雄牛にあずけたら
 一年は生きていられるでしょう

 白い狼にあずけたら――

「ちょ、ちょっと待て」
 いつも通り、今日もサリエリの『甘やかし欲求』を甘受していたダンテスだったが、思わず自分の役割を脱した。
「本当にそんな歌詞なのか?不穏すぎないか?それで子どもは眠れるのか?」
 暗黙の禁を破って身を起こしたダンテスに、サリエリはきょとんと眼を丸くしていた。しかし、質問の意図を捉えると、律儀に顎に手を当てて考え始める。
「……白い狼が先だったかな?」
「いやそういう問題ではなく」
 ダンテスが何を問題にしているのかわからない様子で、サリエリは怪訝な面持になる。邪魔したのはまずかったかと、ダンテスはこのささいな疑問を放棄することにした。
「いや、なんでもない。忘れろ」
 話を打ち切って、元のようにベッドに身を投げた。しかし、一向に黙ったまま動かないサリエリに気が付き、再び起き上がった。
「……どうした」
 サリエリは答えずに、ただ非難するような目でダンテスをじとっと見つめた。むっつりと唇を引き結んでこちらを見つめてくる。どうしたものか、と思いながらダンテスが向き合っていると、サリエリは咎めるような視線を向けたまま、少しずつ頬を赤く染める。それを見て、おや、と思ったときには、止める隙もなく逃げるようにシーツを被って潜り込んでしまった。
 隠れたつもりのサリエリだが、彼のくるまったシーツは、こんもりと膨らんで、その存在感は露骨だった。シーツの下のサリエリから見えないのをいいことに、ダンテスは口角が上がってしまうのをそのままにした。
 恥ずかしがったのだ、この男は。ごっこ遊びの途中で現実の自分たちに戻ってしまったから。そのまましれっと役割に戻るのが、途端に恥ずかしくなってしまったのだ。何を今更。可笑しなことだ。
 ダンテスはそっとシーツをめくると、その下に身体を滑り込ませた。サリエリに倣って、頭まですっかり潜り込んでしまうと、そこはシーツの隙間から漏れ入るまろい光に満ちて、埃っぽく、ぼんやりとしていた。その中でサリエリは突っ伏していた。隠れていない耳がほんのり赤く染まっている。ダンテスが名前を呼んでも、顔を上げない。動かない様子に、ダンテスは手を伸ばした。枝垂れる髪の毛を耳に掛けてやると、サリエリは顔を半分シーツにうずめたまま、片目だけでこちらを睨んだ。さっきまでと同じように、咎めるような目線を向けていたが、やがて怖い顔を続けることがつらくなったようで、吹き出すように笑った。一度糸が切れてしまうと、サリエリの顔はすっかりほころんでしまって、元に戻らなくなった様子だった。そんなサリエリを見て、ダンテスも吐息で笑った。サリエリはダンテスのほうに向きなおると、見つめあったまま、ふっと目を細めた。
「……君の額が好きだ。君の鼻が好きだ。そのかわいい瞳が。かわいい唇が」
 サリエリは、愛が言葉となって溢れ出るように口ずさみながら、その場所ひとつひとつを指で辿った。ぬくもりが顔の上を伝うのを、ダンテスは肌で余すところなく感じた。サリエリのわずかな動きで生まれる衣擦れの音が、小さな世界を満たした。
 指がダンテスの顎の先まで辿りつくと、サリエリは花の綻ぶように邪気無く、くすくすと笑う。喜びが弾けるのを抑えられないとでもいうように。シーツ越しに、角の取れて丸くなった光が、サリエリの頬を柔らかく明らかにするのが、なぜかあたかも神々しいものであるかのように見えた。その眩しさにダンテスは目を細めた。笑うサリエリの前髪が、その額をハラリと跨ぐのを、まるで時間が引き伸ばされたかのように子細にダンテスの目は捉えた。あり得べくもないほど細やかに。

 これはただの虚ろなごっこ遊びに過ぎない。それなのに、なぜなのだろう。

 シーツとシーツのあいだ、このちっぽけな箱庭に、まるでこの世の幸福の全てがあるかのように思える。まだ何一つ失ったことのない、かんぺきな子どもに自分が戻ったような気がした。喪失の上を歩き続けて、ここまで来たというのに。
「おやすみ、ダンテス。美しい子」
 サリエリが大きな手をこちらに伸ばして、優しく頬を包み込む。その手に頬を擦り寄せながら、ダンテスは思った。
 夢が見たい、と。きっと、今までで一番幸福な夢を見る。幸福な夢。そして、お前の夢。

 虚しい幻想に思いを馳せながら、ダンテスは目を閉じた。夢が訪れないことなど、もちろん知っていたけれど。




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2019.01.15

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