謎パラレル






 どこもかしこも薄暗いこの街の、更に一段暗い裏路地をひとり歩く。表通りから差し込む毒々しいネオンの光で、路地裏はほのかに赤く染まっている。迷路のように入り組んだ路地の中にシャアの住処はある。彼は帰路にあった。
「そこの坊や」
 男の声に呼び止められて足を止める。ろくでなしの跋扈するこの世界で、気を抜く瞬間などなかったはずなのに、気配を少しも感じなかった。シャアは上着のポケットに手を入れ、ナイフに触れながらゆっくりと声のほうを向いた。そこに居たのは、ちっぽけな机を立てて商いをしているらしい占い師だった。いつも通る道だが初めて見る。もっとも、怪しげなフードを深く被っていて、顔はうかがい知れないが。
「……こんなところで商売をするのはやめたほうがいい。まともな人間は通らないぞ」
 シャアが警告すると、男はフフ、と笑った。
「まともな人間など、もう地球上のどこにもいないさ。そうだろう?」
 男の主張に、シャアは返す言葉がなかった。男の言うとおりだ。人口増加や環境破壊などの理由で、人類は肉体を捨て、仮想世界へと居を移している。いくつかの主要都市にあるという巨大な箱に、人類の脳は次々と移植されていった。その中では、どんな願いも叶うという。想像しうる善いことはすべて現実のように目の前に現れ、想像しうる悪いことはすべて発現しないように設定することができるのだと。なんにせよ遠い都での話だ。シャアにとっては縁遠いことだった。権力者や富裕層が真っ先に仮想世界へと移住した。次にその下の階級。地球に残っているのは、最底辺のろくでなしばかりだ。自分のような。そうシャアは考える。
「それに、私は商売人ではない。見返りはいらない。君にいいことを教えよう」
「いや、いい。何も言うな」
 どうせなんやかんやと理由をつけて、金を巻き上げようとするに決まっている。シャアは男の言葉を遮ろうとしたが、男はそれを無視した。
「今夜、君のもとに星の使いがやってくる」
「星?」
 シャアは思わず空を見上げた。瞬間、目の端をきらりと走る光がよぎった気がした。しかし一度瞬きすると、汚染された空気で淀んだ、ただの見慣れた錆色の空があるだけだった。シャアが生まれたときには既に空はそのような有様で、肉眼で星空など見たことがなかった。それなのに自分はどうして反射的に空を見上げたのだろう。シャアは不思議に思った。何度もそのようにしてきた過去があるかのように自然なしぐさだった。
「何を言っているんだ、あんた」
 シャアが空から視線を戻してそう問いかけると、しかし男はいなくなっていた。忽然といなくなった男に、シャアは唖然とした。物音ひとつしなかったというのに、机ごと消え去っている。
 シャアは首を傾げながら、狐に化かされたような心地で家路についた。
 シャアの寝起きしている家は腰の高さくらいしかない、裏路地に面した小さな扉から出入りしなければならない。人口が減って空き家だらけとはいえ、それぞれにそこを縄張りのようなものにしている集団というものがあった。どこにも属さないシャアは、無用な争いを避けた結果、このような不人気の物件に居ついているのであった。
 煙突のように細長いアパート。裏口から入って目の前の階段を上がってすぐの、二階の部屋をシャアは自分の部屋にしていた。部屋には紙と本しかない。文字の読み書きができる人材はこの街では貴重だった。今は張り紙の作成だとか、商品の解説書の書きおこしだとか、文字に関する雑多な依頼を受けながら生計を立てている。
 家に帰ると、シャアは手探りで部屋の電気をつけた。いつも通りの、紙と本しかない狭い部屋、ではなかった。
 見知らぬ男―男というより青年だろうか―が、家の唯一の家具であるちゃぶ台に頭を預けて眠っていた。
 シャアはそっと近づいたが、その人物は深く眠りこんでいるようで、すうすうと規則正しい寝息が聞こえるだけだった。そのあまりの無防備さに、シャアは脱力した。そして、先ほどの男の言葉が頭をよぎった。
 ……星の使い?まさか。
 シャアは腰を下ろして、ちゃぶ台に肘をついて侵入者の顔をまじまじと見つめた。
 星というより花みたいだ。なんだったっけ、紫色の小さい。本で見たことがある。
「スミレだったか」
 思わず口に出してしまった。眠っていた青年が瞼をあげるのを見た。安っぽい蛍光灯の明かりを受けるその瞳が、ちら、ちら、と細かに光って見えた。その色は不思議と、紫色のようにも、次の瞬間には金色のようにも見えた。時間の流れるのが、やけに遅く感じられた。
「おはよう。よく眠れたかい」
 ぼんやりしている青年にシャアが話しかけると、青年は寝ぼけた目でこちらを見た。
「眠れた……」
 青年は、眠れたかどうかという問いかけに対して愚直にそう返すと、大あくびをして伸びをした。黙っているときは少しきれいな顔だなと思ったシャアだったが、大あくびをしている顔がブサイクでぎょっとした。そして、無遠慮な男だな、と思った。
「君は誰だい?なぜここにいるんだ?ここは一応、僕の家なんだけどね」
「……わからない。名前はガルマ」
「……用がないなら出て行ってもらえるかな?」
 精神的にチャレンジングな人なのかもしれないと思ったシャアは、なるべく優しく聞こえるようにそう言ってみた。
「どこに行けばいい?」
 ガルマはなんの悪意もなさそうな無垢な瞳で問いかけた。シャアはなんとなくたじろいでしまう。が、どうにか踏みとどまって言葉を続けた。
「街に行けば人がいる。誰かに声をかけてみるといい」
 シャアはそう言ってガルマの腕を引いて玄関まで行くと、扉を開けてガルマの体を押し出す。ガルマは敷居を一歩外に出たところから、こちらをぼうっと見ている。
「じゃあな、達者でやれよ」
 シャアは扉を閉めた。ボロアパートの無骨な鉄の玄関が閉まる音は重く響き渡り、しばらくのあいだ残響をシャアの耳に届かせた。それが止むころに、扉の外で足音がして、だんだんと遠ざかって行った。
 これでよかったのだ。シャアは玄関に背を向けてそう自分に言い聞かせた。自分の身ひとつ守るだけで精いっぱいの生活なのだ。しかたがない。
「…………」
 シャアは玄関の扉を勢いよく開けて、今しがた消えて行った足音を追いかけ、階段を転がるように駆け降りた。




*****




 一緒に暮らしてみてわかったことだが、ガルマは人間ではなくアンドロイドだった。人間とまるで見分けがつかないほど精巧なアンドロイドだ。ガルマ自身の記憶も失われているので、食事を必要としないことから初めてアンドロイドであるという事実が明らかになった。貧乏なその日暮らしだから、ガルマの食費がかからないことは単純にありがたかった。
「ガルマ。君はどこから来たんだい」
 ある日、食卓で―といっても、食事をしているのはシャアだけだが―ガルマに聞いてみた。
「わからない」
 ガルマはあっさりとそう答える。悲しそうでも申し訳なさそうでもない。なんでもないかのように言う。そして、微笑んで聞き返してきた。
「シャアはどこから来たんだ?」
 最初に見たとき、瞳の色がちらちらと変化するように見えたが、それは目の錯覚だった。左右の目の色が異なるのだった。ガルマは、片目は紫色で、もう一方は金色をしていた。微笑むと瞳にすら表情が現われる。その技巧にシャアは驚く。アンドロイドなど貧民層には縁のない高級品であったため、シャアには比較対象がないが、人類はここまでのものを作れる時代になっていたのだろうか。
「ずっと同じような場所にいるよ。ここみたいに絶望的な街で生まれて、いくつかの似たような街を渡り歩いて、今はここにいる」
 ガルマは、シャアの口ぶりから、シャアが自分の所属してきた街を良く思っていないことを感じ取ったようで、控えめに気遣わしげな顔をした。シャアは取り繕うように話を変えた。
「……何か見たことがあるものはあるかい?記憶にあるもの。人でも物でも、建物でも」
 ガルマの出自の謎について聞いてしまうのは、ただ知的探究心からだった。ガルマの身元を明らかにして身柄を突き返そうとは、今はさほど積極的に考えてはいなかった。ガルマと暮らすために必要なのは、人ひとり寝起きするための一畳分の場所くらいのものだ。大した負担でもない。そう思う自分がシャアは意外だった。
 他人といることはいつだって苦痛だった。それにもかかわらず、ガルマはいとも簡単にシャアの領域に入り込んできた。ごく自然に。人ではないから抵抗がないのだろうか?
シャアが問いかけると、ガルマは夢見るようにぼんやりとして、隣のビルの黒ずんだ壁しか見えないはずの窓に視線をやった。
「……見たことがあるよ。ぜんぶ、見たことがある」

*****




 ガルマと居ても、シャアの生活は変わらなかった。今まで通り家で仕事をし、街まで成果物を依頼人に渡しに行き、報酬でひとりぶんの食事を買って帰る。謎の占い師のいた道も毎日通るが、あれ以来一度も見かけていない。
 たまに理不尽な目や危険な目に遭いそうになりながらも、いつも通りの日常だった。ただ、家に帰るとガルマがいる。
 世間知らずで高級品でもあるガルマは、この治安の悪い街に下りないほうがいいだろう。そう思い、家の中にいるように言いつけたら、毎日文句も言わず家でおとなしく待っていた。
「ただいま」
 そう口にして、ふと違和感を覚えた。未視感のようなもの。
 ガルマが来てからいつのまにか、ただいまと口にすることに慣れていた。そのことを可笑しく感じたのだろうか。
「おかえり」
 いつも通り、ガルマが自然にそう返事をして顔を覗かせる。その顔を見て、先ほどの未視感をとりあえず忘れる。

 ガルマが来て最も変わったこと。それは夢だ。
 ガルマが来てから、夜ごと不思議な夢を見る。見たことのない場所、見たことのない時代、そして、いつも決まってガルマがいる。
『シャア!』
 いくつもの夜、いくつもの夢の中で、何度もガルマに名前を呼ばれる。
 ガルマの姿は、今のままの青年の姿のことが多かったが、少年のときもあれば、中年のときもあった。毎晩、経験したはずのない懐かしい日常を過ごした。

 ガルマはアンドロイドであるが、睡眠を必要とするらしい。あるいは、必要性からではなく、そのようにプログラムされているだけなのかもしれない。
 いつものように不思議な夢から覚めて、今ここにいるガルマの寝顔を見る。夢を見るようになってから、寝起きは頭が混乱して、現実を思い出すのに時間がかかるようになった。
「……おはよう」
 ガルマはシャアが声をかけるまで起きない。シャアが声を掛けて、初めて目を覚ます。
「…………おはよう」
 ガルマは眠そうな目をこすりながら、ふやけた声で朝の挨拶を返した。そうして新しい一日が始まる。
 ある日、シャアは街の本屋で、普段読む書物とは毛色の違う本を眺めていた。アンドロイドに関する本。仕事の種にもならない専門書は、シャアにとっては買うには値段が高すぎる。立ち読みなどバレたら半殺しにしてきそうなゴロツキ上がりの店主の目を恐れながら、シャアはその本の要所をかいつまんで読んだ。そしてそそくさと本屋をあとにした。
「ただいま」
 家に帰ると、ガルマも本を読んでいた。実際、この家に閉じこもってすることは読書くらいしかない。
「おかえり」
 そう言って、ガルマは笑顔を浮かべる。
「今日、アンドロイドに関する本を読んだよ」
 いつも通り、帰りに市場で買ってきた怪しげな惣菜を開けながらなんでもないことのように切り出す。
「ふうん。面白かった?」
 屈託なく尋ねるガルマに、シャアは向き直った。本を開いたまま顔をあげてこちらを見ているガルマを、ただ見つめる。
「……」
 言葉に窮するシャアに、ガルマが首を傾げる。
「……君に関することは書いていなかったよ。なにかわかるかと思ったんだけど」
 シャアはようやくそれだけを言うと、おかずを持ってちゃぶ台の前に座り込んだ。
 ガルマに関することは書いていなかったというのは嘘ではない。しかし、なにもわからなかったというのは嘘だった。
 アンドロイドはその経費に見合った生産効率や成果を得ることが難しく、ほとんどの国や機関が技術の成熟する前に研究から撤退している。実働させるならロボットのほうが実用的であった。それか、人間そのものだ。結局人間を売買したほうが安上がりだったのだ。高所得者向けに人間に似せたアンドロイドの生産は続いていたが、それも人工物であるとひと目でわかるような水準で、ガルマのような精巧なものではなかったようだ。
 ガルマのように、これほど人間に似ているアンドロイドは、現在までの文明において存在しない。
 シャアはガルマとなんでもない話をしながら心ここにあらずであった。
 ガルマはどこから来たのだろう?
 存在するはずのない種類の、記憶喪失のアンドロイド。そして、いくつもの夢。

 想像を巡らせているシャアに、ガルマが話しかける。
「仮想世界って、君も入りたいか?そこに行く予定なのか?」
 本に仮想世界の話が載っていたのだろう。シャアは果てしない想像を一旦中断した。
 チャンスがあれば入りたい。そう思っていた。ガルマに会うまでは。こんなクソッタレな人生を捨てて、平穏無事な暮らしの体感が得られるならば喜んで享受したいと思っていた。
 そう考えて、ふと思いついた。
 ガルマは仮想世界のシステムのようなものなのではないか。この世界のどこかにあるという、仮想世界に入った人間たちの、経験と心のすべてが閉じ込められた箱。
 いくつもの世界の、さまざまな自分とガルマ。そのすべてを蓄積している箱。それが今ここにいるガルマなのではないか?
 仮想世界の中では、無意識のうちに他人の記憶や経験を引用し、補い合っていることがあるという。それは、最近自分に起きている既視感と未視感の原因なのではないだろうか。夢でガルマの中身とつながることによって、それが起きているのではないか。
「……ばかばかしい」
 シャアはとめどない妄想を打ち切った。だいたい、一体誰が、何のためにそんな二人のためだけのシステムを作るというのだ。
 ガルマが怪訝そうにしているので、シャアは薄く微笑んだ。
「なんでもないさ」
 今日はもう寝よう。慣れない調べものをしたら疲れたよ。そんなふうに誤魔化して会話を打ち切った。




*****




 その夜もまた夢を見た。自分とガルマがいる夢だ。そして、夜明けを待たずに突然覚醒した。
『君の父上がいけないのだよ』
 自分の声で目が覚めた。自分は今、実際に声に出していたのだろうか?唇に指を当ててみたが、よくわからなかった。代わりに、指先が氷のように冷え切っていることに気付いた。
 瞼を上げて天井を見つめる。目が慣れてくると、古い天井の木目が見えてくる。いつもの天井。首を回して横を向くと、隣でガルマが安らかに眠っている。
 一説によると、睡眠は記憶を整理する機能を持つらしい。
 もしも、ガルマの内部に膨大な記憶が収められているのだとしたら、彼が睡眠を要するのは妥当なことに思えた。
 シャアは音を立てぬよう、ゆっくりと布団から起き上がった。窓は隣のビルの壁に面しているが、身を乗り出せば僅かな隙間から街と空が見える。濁った空気で世界は常に薄暗いが、今が夜明け前だということくらいは知れた。
 錆色の空を見上げながら、ふとシャアは思う。ガルマの瞳は、朝焼けと夕焼けに似ている。紫色と金色。本物の太陽など、ガルマとの夢の中でしか見たことがないが。いや、それを本物と呼ぶのだろうか?
 シャアは外の空気を吸いに行くことにした。ガルマを起こさないように、そっと時間をかけて鉄の扉を閉めた。階段を下りながら、そういえば夢の中のガルマの目は何色だっただろうか、と思った。
 いつものルートで表通りを目指していると、いつかの裏路地で会った、あの占い師がいた。あのときと同じ場所で、今度は誰かと話している。
 こちらに気が付くと、男はフードを後ろに落として素顔を晒した。アッと声を上げる前に、占い師の隣の男がにこやかに手を振ってきた。その顔にまた驚いて、今度は声が喉の奥に引っ込んでしまった。
 それは自分とガルマだった。二人とも中年くらいに見え、髪型が変わっているが、すぐに誰だかわかった。夢の中で既に見ていたのかもしれなかった。
 茫然としていたシャアがハッと気が付いたときには、二人の姿はまたしても消え去っていた。くすくすと余裕の笑い声だけが留まって、シャアをからかっているような気配がした。


「ただいま」
 夜明けが近いことを、空の仄かな白さが教えてくれた。もう起こしてもいいだろうと思い、家に帰ってガルマに声を掛ける。
「……おかえり」
 いつもより少し早い起床だからだろうか。一段と眠そうな声で不明瞭にガルマが言った。シャアはガルマの枕元に腰を下ろした。
「……ガルマ、僕は、仮想世界には行かないよ。もし行くことができたとしても」
 シャアは昨晩の質問に対して、遅い返答をした。むにゃむにゃしているガルマには聞こえていないかもしれない。そう思ったが、それでもよかった。それでもきっと、ガルマの中に残り続ける。たくさんの自分とガルマの物語、その誤解もすれ違いもすべて包んで、時空を超えて存在し続けるのだ。
 しかし、今ここにいるのは自分だ、とシャアは強く思う。今ここにいる自分と、ここにいるガルマ。それが自分の現実だ。幾千の鮮明な夢にも劣らない現実なのだ。
「ガルマ、今日は出かけようか」
 シャアが言うと、ガルマは眠気を吹き飛ばして、目を輝かせた。
「今日はいいのか?」
「明日も明後日もだ」
「どこに行くんだ?」
「どこでもいい」
 やった、と無邪気に喜ぶガルマを見て、思わずシャアも笑ってしまう。ずっと閉じこもっていたのだから、ガルマの反応も当然かもしれないが。
 これから自分と一緒に見る景色も、すべて既にガルマの中にある、予定された事象なのかもしれない。今更ガルマの見たことのないものなど無いのかもしれない。
 それでも、永遠に記録が残るのならば、ひとつでも多くの美しいものを見せたいと思ったのだ。自分が死んでも生き続けるのであろう、この孤独なアンドロイドへの、せめてもの慰めとして。
 そうして二人の青年は旅に出た。この汚れた世界で、尚も損なわれない、本質的に美しいものがこの世にあることを信じて。




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2017.08.20


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