ふつつかものですが
※現パロかつ謎パロ


 この家は二人用にできている。なにもかもふたりぶんだ。間取りはもちろんのこと、歯ブラシも、タオルも、食器だってそうだ。
 この家も、色違いのものたちも、ふたりで一緒に選んだ。ふたりのために誂えた新居。そのはずだった。いや、今だってそうだ。エドモンは自分の内に湧いたあるまじき観念を打ち消そうとした。しかしそれは、あまりうまくいかなかった。
「いってらっしゃい」
 玄関でサリエリが見送ってくれる。サリエリは家の一階でピアノ教室を開いている。二階がふたりの住居だった。
「……いってくる」
 自分を見送って、この家の鍵をかけるのは、いつもサリエリだ。
 鍵の回される音を背中で聞いて、エドモンは安堵のため息をついた。この家を出ると安心する。いや、この家のことではない。エドモンは真実から目を逸らそうとする自身を自覚していた。
 サリエリと別れるとほっとするのだ。エドモンはそれを裏切りのように感じていた。
 サリエリのことを確かに愛している。けれど、サリエリから離れると安心する。どんなときも。そんなふたつの感情が同時に成り立ちうるものだということを、サリエリと暮らすようになって、エドモンは初めて知った。愛しているということと、片時も離れたくないと感じることは、いつもひとつだとばかり思っていた。
 今日は、サリエリの兄は来るのだろうか。エドモンは、駅へと向かう人ごみに紛れながら、そのことを考えずにはいられなかった。


 出会って間もない頃から、サリエリはよく兄の話をした。昨日兄が家に来て、一緒にピアノを弾いたとか、もらいもののお菓子を一緒に食べたとか。他愛もない話だ。サリエリが彼の兄を慕っていることが、エドモンにも容易に知れた。そして、サリエリの兄にあいさつすることが一番の難関なのだろうと、勝手に想像していた。未来の約束などまだ何もしていなかった頃から。
 しかし、そんな心配も、結局は杞憂に終わった。
『兄には会えないだろう。あれは気まぐれだから』
 あいさつに伺おうとエドモンが提案したときの、それがサリエリの言葉だった。来たいときに勝手に来るだけなのだとサリエリは言った。
 エドモンはもちろん不自然に思った。それほどまでに気まぐれであることがあり得るだろうか。頻繁にやってくるほど近くに住んでいながら、サリエリのほうから訪ねる手段がないなどということがあるだろうか。そう疑問を抱きはしたが、エドモンはそれ以上詮索しなかった。サリエリがくれるぶんだけでいいと、本気で思っていたのだ。それはもしかしたら愚かなことだったのかもしれないと、今のエドモンは思う。けれど、愚かであって当然だろう。そう思う自分もいた。だって恋をしていたのだから。


 サリエリの兄は既に鬼籍に入っている。
 それを知ったのは、サリエリと法的にパートナーの契約を結んでからだ。この区ではそれが認められている。だからここへ引っ越してきたのだ。
 サリエリは、パートナーシップ契約を結んでなお自分にそのことが露見しないとでも思っていたのだろうか。たぶん違うだろう、とエドモンは思う。
 サリエリは本当に、自分の兄が生きていると信じているのだ。
 結合性双生児。俗にシャム双生児とも呼ばれる。サリエリとその兄、あるいは弟――なぜかサリエリは己の半身を兄と決めつけているが――はそれだった。生まれながらにして、肉体の一部分が癒着した双子。結合性双生児は例が少ない。調べるとすぐに情報が出てきた。
 二人は生後間もなく分離手術を受けた。そして、サリエリだけが生き残った。
 それが事実。少なくとも、事実とされていることだった。


 サリエリのピアノの技巧は、おそらく卓越しているのだろう。エドモンはピアノに関してはさほど造詣が深くないが、そのくらいは感じている。ふだん子どもを相手に教えているときは易しい曲しか弾かないが、レッスンが終わったあと、自分の腕を試すかのように、鬼気迫る様子で鍵盤を叩いているときがある。それはだいたい夕暮れどきで、エドモンが帰宅する時間に重なることがあった。早めに仕事を終えた日に、家から鬼のような演奏が漏れ聞こえるとき、エドモンは空恐ろしいものを覚える。そして、そういうとき決まってサリエリは言うのだ。『さっきまで兄が来ていた』と。
 サリエリのピアノは、時として二本の腕で弾かれていることが信じられないほどであった。それこそ、別の誰かがいるかのように。

 本当にサリエリの幻想なのだろうか? エドモンはそのことを考え始めると、鬱屈とした心地になる。もし本当に、サリエリの亡き半身の幽霊だか何だかが、サリエリの周囲にとどまっているのだとしたら? サリエリの過ごす、兄のいる日常が、ある種の見方では真実だったとしたら。

 今日は外回りからの直帰で、早めに家に帰ることができた。ドアの前に立って鍵を取り出すと、微かにピアノの音が漏れ聞こえてくる。サリエリはきっとまた、兄と二人でピアノを弾いているのだろう。長い夏の夕暮れが、エドモンの手にした鍵を燃えるように閃かせた。そのまぶしさに目が眩んだように、エドモンはその場に立ち尽くすことしかできなかった。茜空を何羽もの鳥が行き過ぎるのを見送る。
「……何をしている。なぜ入らないんだ?」
 ドアが突然内側から開いた。いつのまにか、ピアノの音が止んでいたことにも気づかなかった。
「……どうしてわかったんだ。立っているのが」
 エドモンが驚き冷めやらぬまま聞くと、サリエリは怪訝そうな顔をして「足音がしたから」と答えた。それからまた、何をしているのだという問いかけの眼差しをエドモンに向けた。
「あー……、鍵をなくして」
 まさか「お前の兄に怯えていた」などとは口が裂けても言えない。エドモンは咄嗟に下手な嘘をついた。手の中に鍵を隠す。
 エドモンのつまらない嘘を嘘とも思わずに、サリエリはフと可笑しそうに笑った。
「それなら、明日もドアを開けてあげよう。明後日も、その先もずっと」
 燃えるような夕焼けのなか、サリエリはそう言ってほほ笑んだ。それは当たり前の言葉の応酬であっただろう。何気ない会話の一場面にすぎない。それなのに。
 その瞬間。エドモンは世界の色が変わったように感じた。世界を覆うカーテンが、木綿からオーロラに変わったみたいに。
 どこか遠くの空が動き、もうすぐエドモンとサリエリの頭上に輝くはずの星が、一足先に知らない街で煌めくのをエドモンは見た気がした。
 この瞬間をまるで奇跡のように尊く思う、その衝動のままに、エドモンはサリエリを腕の中に閉じ込めた。サリエリからは、家の匂いがした。
「ただいま」
 されるがままの抱き人形になりながら、サリエリはおずおずと「おかえり」と返してくれた。
「……さっきまで、兄が来ていた」
 エドモンに解放されるやいなや、サリエリは真っ先にそう報告した。エドモンは思わず声を上げて笑った。
「知っている」
 不思議そうに見上げてくるサリエリを促して、エドモンは家のドアをくぐった。
 この家は、二人用にできている。




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2019.05.26
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