※オリジン設定や、ナナイとシャア、ガルマとイセリナの恋愛関係を匂わせる描写がありますので、苦手な方はご注意ください※
 2013年4月に発行した同人誌のWeb再録になります。本のかたちでお手に取ってくださった皆様、本当にありがとうございます。
 素敵な表紙を描いてくださいました陸彦さん、この本を出すにあたってすべてをご手配くださいましたとと*りらさん(無能な本人で申し訳ありませんでした…!)、本当にありがとうございました!!

それではどうぞ~↓↓↓  





 最初に失ったのは視覚だった。  
 次に煙のにおいがわからなくなった。それから炎の熱さを感じなくなった。火の粉の爆ぜる音、混乱の中で奔走する部下たちの騒々しい足音が最後まで聞こえた。やがてそれも聞こえなくなった。

 身体を無くしてふわふわと漂う思考で、まずイセリナのことを想った。
 それから、ここで共に果てることになってしまった部下たちのこと、失望させてしまうだろう父や兄、姉のこと。それから、初めて前線に立った日や、士官学校での暮らしが次々と頭をよぎった。甦る記憶はどんどん古いものになっていった。そして最後に辿り着いたのは、ずっと忘れていたはずの眩しくて暖かな日々だった。
 子どものころ、ともだちがいた。
 その子どもの名前はキャスバルと言った。美しい子どもだった。私は特定の信仰を持たなかったが、はじめて会ったとき、彼のことを漠然と天使さまだと思った。それで、私は開口一番、どうやって天国から来たのかと尋ねたのだ。いま思い出すだけでも恥ずかしい。キャスバルはぎょっとしたあと、なにかこむずかしい宗教論を説いた。キャスバルはとても頭がよかった。むずかしいことをたくさん知っていた。とにかく、当時の私にはよくわからなかったが、キャスバルにもかみさまはいなくて、天使さまではないということをなんとなく理解した。それから、私と彼は一緒に遊ぶようになった。キャスバルは私より遅く生まれたはずだったが、私より背が高くて足も速かった。私はキャスバルに憧れていたと思う。でもキャスバルのようになりたいとは思わなかった。ただ一緒にいたくて、がんばって足を速くうごかして着いて行ったことを覚えてる。キャスバルにとって私は、さぞどんくさくて煩わしい存在だったことだろう。あの頃は自分が迷惑をかけているかもしれないなんて考えもしなかったから、無遠慮にどこまでもキャスバルの足を引っ張った。けれども、キャスバルは嫌な顔をしたことはなかった。少なくとも、私がそれに気が付いたことはなかった。私の身分に気を使っていたからではないと思う。あの頃はどちらかというとキャスバルの家族のほうが身分が高かったくらいだ。それなのに、キャスバルは私が転んだら、必ず戻って来て助け起こしてくれた。キャスバルのまねをして花冠を作ろうとしたけれどうまくいかなかったときには、自分が作ったものを私に譲ってくれた。おやつのケーキもいつも先に選ばせてくれたし、おもちゃも新しいほうを私に使わせてくれた。そして私はそういう優しさを、当たり前のように受け入れていた。
 君があのキャスバルだったのか。
 もう遅すぎるのだろうか。君にもらったたくさんの光り輝くものたちに少しも報いることのできないまま、私は終わってしまったのか?


 その瞬間、ちか、となにかが瞬いた。後悔に焼かれて、どこかの宇宙で自分の心臓がもう一度目覚める音をガルマは聞いた。


 空間が音もなく波打った。ガルマは衝撃で自分が上も下もなく振り回されるのを、あるはずのない器官を通して感じた。少しずつ自分にかたちと感覚が与えられていく。空間ごと弾ける白い光はちかちかと明滅を繰り返し、刺すように鋭い。いつのまにかそこにあった眼を通して、自分の手足が時計の針になり、時計盤になるのを見た。そして、砕けて光の粒になり、光の粒が砂になって砂時計に収まり、ガラスを散らせてまた外に飛び出すのを。引き千切られる体が空間を切り裂き、耳元でごうごうと風が吠えるのを聞いた。手足はどこまでも伸びて時間の帯の端と端になり、それが出会って円環が完成した。ガルマは自分の形を取り戻した。
 あれほど鋭かった閃光は退いたが、瞳には刺すような痛みが留まり、ガルマは涙がこめかみを流れるのをそのままに仰向けになっていた。手も足も鮮烈な変異の余韻で痺れていた。ガルマは大の字になったまま奇妙なほど静かな周囲を見回した。真の闇ではないが、わずかな光がどこから差しているのかわからない。ほのかな灯りに照らされて、古びた腐りかけの扉がぼうっと浮かんでいることに気が付いた。ガルマは乱暴に涙を拭うと、笑う膝を叱咤してようやく立ち上がり、扉を正面から見上げた。
 扉がこれほど傷むまでに、いったいどれほどの人間がこれを通っていったのだろうか。ネジの胴体の露出した取れかけのドアノブを見てガルマは思った。
 彼らはどうなったのだろう?
 ドアノブに触れるとそれを回すまでもなく、弱り切った蝶番がきしんでその向こうの世界へ扉を開放した。そこには、ただどこかの宇宙があった。天国なのか地獄なのか未来か過去かもまったくわからなかった。
 この宇宙のどこかに君がいる。
 それは確信を通り越した真理としてそこにあった。 ガルマは一歩を踏み出し、無限の宇宙のなかにくるくると落ちていった。




**********




 シャアはグラスを片手に、足音を吸収する毛足の長い絨毯を踏んで部屋を横切った。腰を下ろすと、柔らかなベッドは音もなくよく沈む。ここだけ重力が倍になったかのようだ。傍らのランプを点け、代わりにリモコンで蛍光灯を消した。繊細な彫りの施されたワイングラスの縁には金色が細く走っている。長くこの部屋にあり度々使っているわりにそこには一点の曇りも見られない。グラスを回して中の赤い果実酒を揺らすと、金色の装飾は間接照明の橙を柔らかく反射させ、まろやかにきらめく。
 この部屋の調度品はナナイが取り揃えた。シャアにはこだわりがなかったし、彼女のほうはそうすることでシャアに対する独占欲のようなものが多少なりとも満たされるようであったから、好きにさせていた。なにより、ナナイの趣味は悪くない。
 ナナイが整えるシャアの部屋は、しかし彼女の部屋とはまったく趣を異にしている。彼女自身の趣味というよりはむしろ、私に似合うと思っているものたち、あるいはこのような調度品のなかにあってほしいという理想の実体なのだろうとシャアは考える。この部屋に居ると、自らの不在を強く感じる。それはもちろんナナイの落ち度ではなく、自分のある種の怠慢のせいだということはシャアの自覚するところである。
 シャアは中身の残ったグラスをそっとベッドサイドのテーブルに置いた。
自分は破滅したがっているのだろう。その望みが果たされんとしている今になって、この優しい色に満たされたがらんどうの部屋でシャアの意識に上るのは、いまや失われたものだった。
 これまでそれを認めることを拒み続けていた。けれどようやく訪れる終わりの気配を感じたとき、シャアは敗北を認めたのだった。
 あれは確かに喪失だったということ。
 シャアは雲で編んだように肌ざわりの良いシーツに身をうずめた。 重力に引きずられるように、地球で果てたその人に思いを馳せた。瞼を閉じると曖昧な照明のあたたかさの向こうに浮かぶのは、かつてそこにあった幸福な日々だった。

 ここにはたくさんある。あのころの私が与えられなかったもの。いまならいくらでも君に与えられるのに。 私が与えられても意味がない。
 シャアは微睡みながら、喪失感がついにひとつの後悔の像を結ぶのを見た。
 私は君に与えたかったのだ。なにか光り輝くものを。あんな、終わりなんかじゃなく。




**********




「エドワウ!」
 呼ぶ声に足を止めると、ガルマが息を切らせて駆け寄ってくるところだった。 「ガルマ。会えたのか?」
 まだ呼吸の整わないガルマに合わせてゆっくりと並んで歩き始める。 「ムラタは居たけどシャアはいなかったから、ムラタに伝えてもらうことにした。ムラタはオッケーだって!」
 ガルマは息を弾ませながら嬉しそうに報告した。
「まあムラタくんが大丈夫ならシャアも多分大丈夫だろう」
 ムラタくんとシャアはたいてい一緒に行動している。というのも、さみしがりやのシャアがルームメイトのムラタくんに懐いているのだが、ムラタくんもそれがまんざらでもないらしい。ガルマはにやりと笑った。
「まあな、教官になにか居残りのペナルティを課されなければだけど」
「またなにかやらかしたのか」
 おそらくシャアは教官に呼び出されていて不在だったのだろう。シャアは、控え目に言って、とてもうっかりしているのでよく呼び出しを食らう。
「なにをやったのかはムラタもわからないみたい、心当たりがありすぎて」
 僕とガルマはついに耐えかねて声を上げて笑った。シャアのドジはいつも僕らの物笑いの種だ。特に本人の前でからかってやると、涙目で怒るから面白くて仕方がないのだった。もちろん気心の知れた仲だからそうしているのであって、深刻な下手を打ったときには庇ってやる。だいたい僕とガルマが作戦を練って、ムラタくんと三人でシャアをフォローしてやるのが常だ。ほんとうはガルマの鶴の一声さえあれば教官を退かせるにはじゅうぶんなのだが、誰もそれは口に出さない。僕らはみな、このささやかな反抗を楽しんでいるのだ。戦場に出るまでのこのわずかな青春の日々を。ガルマと策を出し合って時間と闘いながら作戦を洗練させるのは楽しいし、その実行には人当たりのいいムラタくんが欠かせなかった。ガルマが表に立つとそれだけで作戦は意味を成さないし、僕が出てもガルマとグルだと思われるか、相手が警戒しすぎるかでうまく行かない。ムラタくんは優秀な学生なのだが、なぜかひとを構えさせるということがない。その才能は僕らにはないもので、ガルマも僕もそんな彼に一目置いていた。
「それで、今日はどっちの部屋なんだ?」
「まだ決まってないんだ。モノはこっちにあるからできれば二人に僕らの部屋に来てもらいたいけど、このタイミングでシャアがなにかやらかしたらまずい」
 ガルマは前髪をいじりながら思案する。
「やっぱり僕らが二人の部屋に行ったほうがいいんじゃないか?シャアを出歩かせるよりはいいだろう」
 シャアはひどい言われようだがいつものことだ。僕が提案すると、ガルマはぱっと髪を放した。細く柔らかい髪は、上から撫でつけなくてもさらりと他の束に馴染んでいく。
「うん、そうだな!こっちに来させると、行きはともかく帰りのシャアが心配だ。あいつは弱いからな」
 ちょうどそのとき食堂に着き、ガルマの声は喧騒に紛れた。昼の食堂は食べ盛りの学生たちでごった返していて人いきれがひどい。入学当初は気圧されていたガルマだったが、一年経ったいまは人ごみを縫って歩くのも慣れたものだ。僕とガルマは列に混ざって順番にトレーを埋めると、日没までは常に開放されている窓から中庭に出た。この時間帯にわざわざ混雑した食堂内で食事をとるのは勝手を知らない新入生だけだ。
「じゃあ、放課後にもう一度ムラタにそれを伝えに行くよ。そのときにもう持って行こうか。消灯後に部屋を抜け出すときは、身一つのほうがいい」
 ざわめきから遠ざかると、よさそうな場所を探してガルマはきょろきょろと辺りを見回した。近場の木陰にはどこも先客が居るように見えたが、ガルマは小さな木の陰が重なってひと二人を包むくらい大きくなっているところにぺたりと腰を下ろした。隣に座ると、頭の上でしゃらりと艶やかな木の葉が鳴るのが聞こえた。遠くにさざめく人の声の波が心地よい。ガルマは昔からこういう場所を見つけるのがうまかった。
 ガルマは覚えていないのだろう。
 それを思うと訪れる、甘く痺れるようなこの感覚をいつも持て余す。行き場のない想いのさまようままにガルマを見ると、トレーの上で食器が滑るのにわたわたしながらプラスチックのスプーンを口に運んでいた。人ごみには慣れたが、軽すぎるここの食器を扱うことには一向に慣れないその様子に、なぜだか余計胸が苦しくなってしまった。いつもこうして横顔ばかり見ていた気がする。たいていなにかに夢中になって、唇をとがらせていた。とろいくせに、ただ僕の後ろを歩くことはよしとせず、並んで歩くことを望んだ、馬鹿なガルマ。
 君にとって僕はただの青春の日々の連れ合いなのだろうか。
 こんな感傷は馬鹿げている。自分には過ぎた夢だと心のどこかで思う。ただ復讐のためだけに、すべてを嘘で塗り固めてもう一度ガルマの隣まで辿り着いたのだから。それなのに、こうして眩しいガルマを見ていると、どうか気付いてくれと身勝手な願いが胸の奥で息づく。そしてそんな僕を、いつも黒い感情が蠢いて非難するのだ。


「エドワウ・マス、ガルマ・ザビ!」
「「はい!」」
「よし、いるな。悪さするなよ」
 消灯前の点呼に来た教官がドアを閉めると、ガルマと顔を見合わせた。
「悪さするなよ、だって。バレてるのかな?」
 ムラタとシャアの部屋は僕らの部屋の隣の隣で、先に点呼を受ける。そのときに、先に持っていった酒が見つかってしまったのかも知れない。そうガルマは懸念して前髪をくるくるといじりはじめた。
「いや、ムラタくんはうまくやるだろう。たぶん今日シャアが教官に呼び出されてたからじゃないか?」
 僕が言うと、ガルマは素直に頷いた。
「それもそうだな!とりあえず行ってみよう」
 言うが早いか、ガルマは電気を消して窓を開けた。寮の部屋には狭いベランダがあり、それが隣の部屋とつながっているのだ。洗濯物を干すためだけにあるようなもので、体を横にしてカニ歩きをしないと通り抜けられない。悠々と通れるのは猫くらいのものだ。
「別に、ドアから行けばいいんじゃないか?もう教官もいないだろう」
 窓の桟を乗り越えようとしている背中に向けて言うと、ガルマはその体勢のまま首だけこちらに向けた。
「だって、このほうが楽しいじゃないか。いけないことをしている感じがして」
 ぬけぬけとそんなことを言うガルマがおかしくて笑ってしまったらガルマは赤面して、もういい君はドアから行けなどと言って窓から出て行ってしまった。僕は笑いながら追いかけて、結局二人してニンジャみたいに摺り歩き、ムラタくんの部屋の窓を叩いた。まだ若干ぷりぷりしているガルマと、笑いの余韻を噛み殺している僕の顔を見比べて、なにかを察したであろうムラタくんは、結局ただ微笑んで部屋に招き入れてくれた。できた人だ。
 部屋に上がるとすかさずカーテンを閉めた。消灯後に灯りが点いている部屋はそう珍しくはないが、教官に絡まれる要素は少ないほうがいい。なんといってもこの部屋の片割れは今日も問題児なのだ。
 部屋を見回してみると、どうやらその問題児はまだ戻っていないようだった。部屋の半分はきれいに片付いていて、もう半分は見事にごちゃごちゃだ。
「相変わらずだなあ」
 恐らくその両方を指して、ガルマが思わずといった調子でこぼした。
「すいません。片付けてって何度も言ってるんですけど」
 ムラタくんが謝ると、ガルマが怪訝な顔をした。
「なんで君が謝るんだ?」
 ガルマの子供っぽい無神経さに僕は思わず吹き出した。
「なんだよ!!」
 ガルマは突ついたら破裂しそうなほどパンパンに頬を膨らませて怒りを露わにした。どうやら先ほどの窓のやり取りで沸点が低くなっているらしい。思わず両手で挟んでガルマの頬をぷすっと潰すと、ガルマはちょっと大袈裟に見えるくらいショックを受けた。 「きみは!!またそうやってあれして!!」
 怒りに顔を赤くしてキーキーとわめくガルマがなにかに似ているなあと考えていると、ムラタくんがまあまあ、と言ってあいだに入ったので、ガルマはしぶしぶ溜飲を下げたようだった。ムラタくんがてきぱきと折りたたみテーブルを組み立ててクッションを出すと、ガルマはためらいなくそこに腰を下ろした。
「手伝うよ」
「あ、ありがとうございます」
 動かないガルマのことは諦めて僕が申し出ると、ムラタくんは照れたように笑った。とても嬉しそうに見える。正直に言って、もしもシャアがいなかったら、僕はムラタくんの態度を誤解することになっていたのではないかと思う。
 僕らがグラスといくつかのアルコールを携えてキッチンから戻ると、ガルマは床に寝そべってシャアが出しっぱなしにしていたと見られる漫画を読んでいたが、準備が整ったと知るとすかさず身を起こした。調子のいいことだと少々呆れたが、今日の上等なワインはガルマが家からくすねてきたものだったのでまあ許してやることにした。僕はテーブルにすべてを置いてようやく腰を落ち着けると、ワインボトルをくるりと回して裏のラベルを読んだ。
「これはまたずいぶんいいやつだな。大丈夫なのか?勝手に持って来て」
「心配ないさ!これまでもばれたことは無いからな。そんなに上等なやつなのか?」
「かつてのフランス共和国のポイヤック産の赤ワインだな。地球産のなかでもすごく高いやつだ」
 ムラタくんが、本気なのか取り繕っているのかよくわからない曖昧な感嘆の声を上げた。
「ふうん。まあ美味しかったらなんでもいいけど」
 ガルマは興味なさげに言った。こんなやつがこんな高級なワインを飲んでいいのか?という気持ちは隠して僕はグラスを並べて順番に注ぐ。
「シャアは居残りか?」
 僕が注いだグラスを無造作に受け取りながらガルマが尋ねた。
「そうらしいです。先週のテストがまたダメだったみたいで。さっき一度戻ってきたんですけど、居残りで補講してから追試をさせられるって言ってました」
「一気にテストもされるのか。それにしても遅くないか?」
 グラスを手渡しながら僕が言うと、ムラタくんはううんと考え込んだ。
「もしかしたら、追試も全然ダメだったのかも」
「またエドワウの出番じゃないか?」
 ガルマがふざけてそんなことを言った。シャアに代わって追試を受けたことは何回かある。
「やめてくれ。けっこう大変なんだ、あれ」
 僕は最後に瓶を少し捻って自分のグラスに注いでいた赤い水を切った。
「追試のほうが難しいんですか?」
 ムラタくんが意外そうに聞いた。
「いや、追試は易しい。シャアの字を真似ることと、彼らしいミスをいくつか忍ばせるのが面倒なんだ」
 冗談めかして本音を漏らすと、ムラタくんは遠慮がちに、ガルマは遠慮なく笑った。実際のところ、僕にとってはあまり笑い事ではなかったので、何も言わずにコルクを探すふりをした。口元に笑みを残したままガルマはグラスを手に取り、軽く掲げた。ムラタくんと僕はそれに倣った。ガルマは咳をひとつすると、わざとらしく厳かに言った。
「では、シャア・アズナブルの生還を願って」
「乾杯!」
「いや、死にはしないでしょう…」
 ムラタくんだけが良心的な指摘をした。

 ガルマは高級ワインだろうとジュースのように軽い酒だろうと、お構いなしにさらさらと体に流し込む。今日もテンポ良くぱかぱかとグラスを開けては手酌でつぎ直して一人で一気に瓶を半分ほど減らし、ムラタくんが途中で席を立って作ってくれた酒のつまみも人一倍もりもり食べた。そして気が済むといつも勝手に寝てしまうのだ。酔っ払って正体不明になるから眠りに落ちるわけではなく、その時間になったら寝ると決めていたかのようにすうっと寝てしまう。健やかに眠るガルマは、まるで子どものようだと思う。そう言うと、ムラタくんは柔らかく笑った。
「僕たちも子どもだと思いますよ」
 そうかもしれない。けれど、ムラタくんは大人だと思う。そう思ったままを口にしてみたら、ムラタくんは困ったように笑った。
「ムラタくん」
 僕は唇を湿らせた。ムラタくんになら言えるかもしれない。この人なら、僕が最近頭を悩ませていることを笑ったりしない気がする。
「相談というか、まあ、相談?があるんだけど」
 ムラタくんはわずかに首を傾げた。僕は自分のしどろもどろな物言いに動揺した。そういえば人に相談などしたことがない。それを自覚するとますます緊張してきた。
「いや、大したことじゃないんだけど」
 ムラタくんは目で、聞いていますよという意思表示をして僕の言葉を促した。
「ガルマのことなんだが」
 なんと言えばいいのだろう。言えないことが多すぎる。
「…実は、僕はガルマのことが嫌いなんだ」
 嫌い?嫌いとかそういう次元じゃないだろう。口に出してしまってからそう思ったが、深く話せない以上こういう表現に逃げるしかない。
「…そうなんですか」
 ムラタくんはそれだけ言うと、ゆっくりとまばたきをした。それで?と言っているように見える。
「それで…。でも最近、よくわからなくて困るときがある」
 ムラタくんは、ふむ、と静かに頷いた。沈黙に煽られて僕は一人であたふたしてしまう。
「よくわからないというのは、僕の感覚的なことで、すごく曖昧なんだが、なんというか、ガルマをみていると、どうしたらいいかわからなくなるんだ。ガルマが頼りないからだと思うんだけど」
 ムラタくんはさっきと同じように頷いたが、さっぱりわからないと思っていることが見てとれる。それはそうだ、なんだその説明は。なにを言いたいのか、どんどんわからなくなってきた。
「楽しいのかもしれない。ガルマと居ると。それで僕は困惑している」
 うん、そういうことかもしれない。僕は一人で納得して、一瞬ムラタくんのことを忘れた。
 そのムラタくんは、僕が話し終えたと知ると軽く息を吐いた。
「それは、別にいいんじゃないですか?好きってことだと思います」
 信頼しているムラタくんからのとんでもない誤解に満ちた解釈に僕の理性は崩壊した。具体的に言うと酒を噴き出して激しく噎せた。
 ムラタくんがどこからともなく取り出したハンカチをソツなく差し出してくれるのも無視して、僕は勢い込んで否定した。
「まさか!君が知らないのも無理はないが、ガルマはほんとうにだらしがないというか、ひとを幻滅させる天才なんだぞ!」
「…だらしがないんですか?」
 ムラタくんは僕の勢いにひるんでおずおずと聞いて来た。
「いや、部屋を散らかすとかではないんだが。よく口がだらしなく開いてるし、それでたまによだれが出てるし、口呼吸になってるときもあるし、あれのせいで多分口の中ではとてつもない量の雑菌が培養されていると思う、それにそういうときの顔は理解できないくらいブサイクなんだ、ガルマを王子様としてアイドル視している世の女性たちに見せてやりたい、ほんとうにあれはひどい顔なんだ、あと食事のときも急に咀嚼をやめて間抜け面をするし、かと思うといきなりなにか思いついて口に食べ物を入れたまま勢い込んでしゃべろうとするし、それで口の中のものを服にこぼして、そうなることなんてわかりきっているだろう?!それなのにまるで思いも寄らない事態に陥ったかのようにおろおろするから僕がハンカチで拭いてやるんだ、おかげで僕は自分のものとは別にガルマ専用ハンカチを常備している始末だ、そうやって何度もやってるのにいつまでも同じドジを繰り返すし、そうだ食事といえば、粉物を食べたならば必ずといっていいほど歯に青のりが付いているし、それもちょっとじゃなくて青のりを歯に塗ったのかと思うくらいいっぱい付けてるんだ、歯並びはいいのにどうしてあんな惨状が引き起こされるのかまったく経緯が想像できない、あとバジルのパスタなんかを食べたときもそうだ、パスタのバジルなんて水気があるしふつうそんなに付かないだろう?!毎回それで僕が指摘してるのに、そうそうそのためにわざわざ鏡を持ち歩いてるんだ僕は、鏡を入れたらそれだけで胸ポケットはパンパンになるからものすごく邪魔なんだよ、あとはもうボールペンを刺すくらいの隙間しかなくなる、それでもガルマはなぜ懲りずにバジルのパスタを頼むんだろう、なあなぜだと思う?それから写真を取るとどれもこれも半分目を閉じて写っている、君もこないだの野外研修の集合写真を見ただろう?!写真を撮られる機会は多いはずなのにどうして未だにそんな小学生みたいなミスをするんだろう、新聞や雑誌に載っているガルマの写真を見るたびにカメラマンはこの一枚の目の開いている写真のためにいったい何本のフィルムを消費したのだろうと思いを馳せてしまって僕は同情を禁じえないよ、完全に閉じているならまだいいが半目だぞ、それも口元だけは完璧な王子様スマイルを浮かべているから気持ち悪いんだ、気持ち悪いというかもはやこわい、こわいだろうあれ!あと授業中は寝ないが部屋では子どもみたいにすぐにうたた寝をするし、それがまた摩訶不思議で珍妙な体勢で寝てるんだ、よくあるのは椅子に膝から下を乗せて上半身は仰向けに床へ横たえている姿勢なんだが、意味がわからないだろうびっくりするんだ部屋に入ったとき、ふつうに机に突っ伏しているなら僕も毛布をかけてやるくらいのことはできるが、あの体勢で僕はどうすればいいんだ?そのくせベッドで寝ているときには朝まで少しも乱れないんだ、僕は三度ほど寝ているガルマをこっそり監視したことがあるんだが結局寸分の乱れも見られなかった、いったいなんなんだ?!それに、さっきの怒ったガルマはまるでサルみたいだった、そうだサルだ!ようやくすっきりした、とにかく」
 僕はグラスに残ったワインを飲み干して一息ついた。
「とにかく、わかっただろう、ガルマが恋愛対象になるなんてことは絶対にありえないということが」
 ムラタくんは僕をしばらく見つめてから、ワイングラスに目を落とした。
「別に、恋愛的な意味での好きと言ったつもりはありませんでしたが」
「ああ、そうか、うん」
「意見が変わりました」
「え?」
 ムラタくんは微笑みながらグラスの縁をつ、と指で撫でた。
「エドワウさん、あの集合写真、実は僕も目が半開きになっちゃったんです」
「…へえ」
 ムラタくんは淡々と言うと、再び僕のほうに向き直った。
「気付いてなかったでしょう?」
「…うん」
 ムラタくんはひっそりと笑った。
「そういうことです」
 どういうことだ。
「それにしても、少し妬けるなあ」
 ムラタくんはそう独りごちると、いつものように照れたようなへらりとした笑みを浮かべた。その笑顔を見ていたら、ムラタくんの言わんとすることがふいにすとんと胸に落ちてきた。
 好き?僕がガルマを?
 呆然とする僕を尻目に、ムラタくんはゆったりとした仕草で僕のグラスを酒で満たした。
「まあ、飲みましょう」
 うなだれる僕にグラスを握らせてムラタくんは微笑んだ。
「ムラタくん…」
 ムラタくんの落ち着いた声で僕はすっかり体の力が抜けてしまった。こんなにまともな人がいるのにどうして僕は。なぜよりにもよってあのガルマなんだ。まさにこの瞬間もガルマは間抜け面を晒してよだれを垂らしながらぐうすかと寝ている。人の不思議に図らずも目頭が熱くなった。
 僕らが見つめ合って静かな親密さを分かち合っているところに、すべてを台無しにする嵐がやってきた。
「ムラター!!助けて!!」
 我らが問題児は、バタンと騒々しく扉を開け放って飛び込んでくるや否や泣き喚いた。そして成り行きで手を重ねて見つめ合っている僕らを見て血相を変えた。
「エドワウ?!なにしてんの?!どういうこと?!ひどい!!」
 僕とムラタくんがなんと説明しようかと顔を見合わせていると、ガルマが騒ぎにむくりと起き上がった。
「あれ?シャアだ。追試どうだった?」
 それを聞いてシャアがまた絶望したように嘆いた。
「そうだった、またダメだったんだ!!」
 半泣きでうなだれるシャアに、僕ら三人は無言で視線を交わすと、耐えきれなくなって笑ってしまった。ぼくらが心ゆくまで散々笑うのを見届けてから、シャアはじとりと睨みつけてきた。
「そこまで笑うことないだろ…」
「なんの教科だ?みてやるよ」
 寝ていたおかげかすっかり酔いから覚めた様子のガルマがテーブルのうえを片付け、そこにシャアが教科書を広げた。僕とムラタくんは目配せをして、やれやれとそっとため息を吐いた。どうやら今夜の宴は終わりらしい。
「暗号学?」
「そう、全然わからなくて、これが追試の問題用紙なんだけど」
 ガルマはどれどれとシャアの手元を覗き込んだ。
「どれがわからなかった?この一問目はわかるか?」
「わからない…。一行目からわからない」
 僕もガルマの指差している問題を読んでみる。
「シャア…。一行目は暗号じゃないぞ、まだ問題文だ」
「ええっ?!そうなの?!」
 素で驚くシャアにこっそりムラタくんが笑ったのを僕は見た。
「シャア、ほんとにひどいな…」
「やめろ!その目はやめろ!」
「まず一番多く使われてる記号を探すんだよ。多くの場合、それがアルファベットのEだから。それから…」
 シャアの勉強はガルマに任せておけばよさそうだ。僕が追試を受ける羽目にならなければいいが。そう思いながらひとつあくびをすると、急に眠気が押し寄せてきた。ガルマとシャアの声を聞きながら僕はまどろみ始め、いつしか抵抗することをやめた。


 物音に目覚めると、既に空は白み始めていた。
「ガルマ?」
 暗い部屋の中で動いているものに声をかけた。
「エドワウ。起きたか」
「シャアの勉強会は終わったのか」
 起き上がりながら聞くと、ガルマが肩をすくめたのがわかった。
「全然終わってない。でも寝ちゃったから、エドワウ頼むよ」
「…仕方ないなあ」
 僕があくびまじりに言うとガルマがおかしそうに笑った。
「僕はもう戻るよ。シャワー浴びたいし。君はどうする?」
「うん。僕も戻ろうかな」
 僕は目をこすりながら部屋を見回した。だいぶ散らかしてしまった。
「少し片付けたほうがいいだろうな」
「そうだな!」
 ガルマは意気込んで腕まくりをして、空き瓶やらグラスやらをがちゃがちゃとキッチンに運んで行った。心配だ。立ち上がって後を追おうとしたところで、さっそくキッチンからなにかの割れる音がした。
「大丈夫か」
「…どうしよう?」
 ため息まじりの僕の呼びかけに、困り顔で振り返ったガルマの手からは血が滴っていた。それを見た瞬間、僕は衝動的にその手を掴んだ。
 この血だ。この血が必要なんだ。僕が自由になるために。自分の中の、復讐に燃える黒い感情がゆるゆると身をもたげた。
「…エドワウ?」
 手を取ったまま動かない僕にガルマが不安気に声をかけて、僕は弾かれるように暗い夢から醒めた。
「…止血しないと」
 僕がようやくそう言うと、ガルマは慌てた。
「違うんだ!これはワインだから!怪我はしてない」
 それを聞いて落胆したことに僕はぞっとした。しかし同時に安堵した。お前はそれでいいのだと誰かがささやく。ムラタくんの言ったことが頭をよぎった。ムラタくん、本当に僕に愛せると思うか?この劣情を覆してまで、ガルマのことを。
「割れちゃったグラス、どうしよう」
 ガルマは僕の瞬間の熱狂にも落胆にも気付かず、グラスのことばかり気にしている。
「僕がやっとくから、先に戻っててくれ」
「いいのか?ありがとう!」
 ガルマは素直に笑って部屋を出て行った。それを見送ってから、僕は割れたグラスを新聞紙に包み、ゴミ袋がどこにあるかわからなかったので目立つように三角コーナーの上に乗せ、残りのグラスを洗った。グラスに残っていた微量の赤ワインが洗剤の白い泡に砕かれながら排水口に吸い込まれて行くのを、じっと息を詰めて見ていた。
 めまいがするほどに、あの血が欲しいと渇望した。その柔らかい肌の下を流れる穢れた血だけが僕の渇きを潤すのだと思っていた。けれど、もしそうでないとしたら?
 それはあまりにも罪深い空想だ。それでいて甘い夢だ。



 天秤は均衡を保ち、どちらに傾ぐこともなく鎮座している。それは羽のように軽い、ほんの少しの重りで宿命的に傾くだろう。

 ほんの少し。たとえば、血の一滴。




**********




『室内装飾の女史は喜んだ?それとも秘密?』

 女の言葉にぎょっとして覚醒した。慌てて辺りを見回すと、声の主はテレビの中の女優だった。ベッドの上で身体を起こす。古い映画が流れている。そして傍には見慣れたまあるい頭がある。いや、見慣れていたのはいつのことだ。ずっと昔だった気がする。
「…ガルマ」
「ううん」
 声を掛けるとガルマは不満げに身じろいた。長い髪が白い背中をさらさらと流れる。
「シャア?」
「シャアだと?」
「…どうかしたのか」
「僕はシャアじゃない」
「キャスバルって呼んだほうがいいのか?そういう気分なのか?」
「ムラタくんは?」
「…誰?」
 そこで私はようやくうっすらと事態を把握した。さっきまでのは。
「夢か」
「大丈夫か、キャスバル」
「なんだ急に。シャアでいい」
「おい……」
「なんでここにいる」
 ガルマはもぞもぞと毛布から這い出して上半身を起こした。
「なんでって…今日は泊まることになったから」
 ガルマはのんきにあくびをしながら簡単に言った。
「…いつ?」
「いつって、何時間か前」
 まったく記憶がない。しかもガルマはなぜか服を着ていない。
「覚えてないのか?私の持ってきた酒を一緒に飲んだじゃないか」
「…薬でも盛ったのか?」
 私が言うと、ガルマは眉を顰めた。
「なんで私がそんなことをするんだ」
 それはもっともな言い分だ。私は自分の調子のいい思考を恥じた。
「すまん」
 私は混濁する思考を整理しようと、記憶を遡った。そういえば今日は夕方にガルマが訪ねてきたのだった。もともとそういう予定になっていたから、ガルマの来る数時間前から落ち着かなかったことを思い出した。だからガルマがナナイに案内されて部屋に来たときには、私は意味もなく部屋の中をうろうろしていたのだった。


「私はナナイ女史に嫌われているな」
 ドアが閉められるや否や、ガルマは気持ち声を抑えてぼやいた。
「ナナイは私以外にはだいたい冷たい。気にするな」
「そんなに偉そうにしていたら捨てられるんじゃないか?気を付けろよ」
 ナナイは君に妬いているのだよ。とはさすがに言えず冗談でごまかしたつもりだったが、真顔で忠告されてしまった。ナナイは敏い女だ。私とガルマのあいだにかつて嫉妬するに値するなにかがあったことを察している。
 ガルマは私が勧める前にソファに腰を下ろすと優雅に脚を組み、なにかのディスクとマイクロチップを机の上に置いた。
「これは、今度の作戦に関するものか?」
「いや、それとは関係ないんだが」
 私とガルマの組織は基本的に対立関係にあるが、利害の一致する場面では作戦行動を共にすることがある。現在も進行中のそういった案件があるのだが、今回の訪問はそれとは関係無いらしい。
「イセリナがこの映画が観たいというんだが、なにしろとても古いものでね。うちにはこのメディアの再生機器がないんだ。たしか君の寝室にはあっただろう?データをこっちに移してほしいんだが」
 ガルマはまったく悪びれずに朗々と述べた。間の抜けた内容に私は思わず頭を抱えたくなった。ザビ家の御曹司、いまは新生ジオン総帥ともあろう者が、再生機器がないから焼いてくれとはなんと所帯染みたことか。そのくらい、自分で買いたまえよ。そう言ってしまいそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。そしてすぐに、そんな自分の滑稽さに気付いて鼻で笑ってしまった。大人になればなるほど、どんどん情けなくなっていく気がする。ただそうしたいというだけでは理由にできなくなって、くだらない口実探しに必死になっている。
 だがそれはガルマも同じことだ。 不意に笑った私をガルマは訝しげに見ていた。
 会いたいと思うだけで飛んでいくことのできた、あの勇敢な子どもたちはどこに行ってしまったのだろうな。
「いや、わかった。しばらく使っていないが、おそらく可能だろう」
「ありがとう!助かるよ」
 ガルマは快活に笑うと携えてきた紙袋をテーブルの上にどん、と豪快に置いた。
「つまらないものだが、ささやかな礼だ。受け取ってくれ」
 見覚えのある紙袋の文字にこれ見よがしにため息を吐いた。
「またそれか…」
「なんだその反応は!なんだかんだでこのワインが飲めなくなったらさみしいと思うぞ、たぶん!」
「そんないいものではないだろう、それは」
 しばしば手土産として持ちこまれる、ガルマの言うところのこの"ワイン"は、そう呼ぶことの憚られる珍妙な液体だ。ワインを飲もうと思って口にすると舌にまとわりつくようにどろりとした甘みに驚くし、甘い酒を飲みたいと思い口にすると渋い後味ばかりが気になってしまう。はじめて押し付けられたときはそんな代物だとは知らず、あとでひとりで開けて困惑させられた。栓を抜いてしまった半端なそれをどうしたらいいかわからず、結局最初の瓶の中身は全部捨ててしまった。どういう気分で飲めばいいのか未だにわからないが、ガルマの言う通りたまにふとこの妙な酒の味を思い出すときがあるのは確かだ。だが一瓶置いていかれても困る。わずかに舐める以上のことをすると舌が馬鹿になる。
「ドズル兄さんがスポンサーに毎年買わされるんだが、正直うちでも処分し切れない。あとで捨ててもいいからもらってくれよ」
 ガルマは爽やかに笑うと、テーブルの上の紙袋をスイとさりげなくこちらに滑らせた。その洗練された指先とはうらはらの子供じみた言葉に笑ってしまう。
「人前で"ドズル兄さん"はないだろう」
 私が呆れて両手を広げてみせるとガルマはむっとして唇を尖らせた。
「私だって弁えているさ。君とイセリナの前でしか言わない」
 きみといせりなのまえでしかいわない。
 その音を胸の内で復唱して、やり場のない苛立ちを覚えた。一体全体どういうつもりでそういうことを言うんだ、この坊やは。
 その認めたくない不快感をごまかすためにソファから立ち上がった。ナナイの揃えた一級品ばかり並ぶ食器の中から、適当なグラスをふたつ手に取る。
「君も付き合えよ。責任を持って空けていけ」


 そうだ、あの珍妙な酒は、飲みにくいぶん実に早く酔いが回るのだ。取り戻しつつある記憶のしょうもなさに、ベッドの上で眉間を揉んだ。いま流れている映画は例のイセリナ嬢の趣味の映画だ。古い媒体だからコピーするのに映画自体と同じ時間がかかると言ったら、ガルマがどうせなら流しながら焼けと言ってきたのだ。それにも関わらず、傍らに横たわるガルマは結局映画を観ずに再び規則正しい寝息を立てている。


 忌々しい瓶が空になったときにはガルマは既に前後不覚の状態だったのに、私も気分がよくなってしまい、部屋に備えてあるブランデーだのジンだのを出したからいけなかった。
 ガルマと私は酒のせいで無駄によく回る舌で、次から次へとたわいもないことを話し合った。政治のことから女のことまで。なんの話でも同じことなのだ。今更二人で個人として真面目に語り合うことなどないということはお互いにわかっている。
「ガルマ、今日はもうやめておけ」
 ガルマが何を言っているのやらさっぱりわからなくなってしばらく経ってから、私はイセリナに電話するために重い腰を上げた。自分も相当酔っていると思ったが、連れが自分以上に出来上がっているとなぜか目が冴える。そして改めてテーブル周りの酒盛りの残骸を俯瞰して頭が痛くなった。メイドにすら見せることが躊躇われる荒廃ぶりだ。
 惨状から視線を剥がし、書机の上の電話を取る。まだ夜は更けていないし、ガルマの帰りを待っておそらく起きているだろう。一人で伴侶の帰りを待つイセリナを思うと心から申し訳なくなったが、それもこれもガルマのせいということにした。呼び出し音を聞きながら、イセリナ個人の端末の番号が登録されていることを今更ながらにおかしく思う。 イセリナは、かつてガルマが生死の境を彷徨った原因を作ったのが私だということをおそらく知らない。ガルマはこれからも言うつもりはないのだろう。まるで恩赦を与えられているような気がして釈然としない。言えばいいのに。私がそれを怖れているとでも?そして、一人で苛立つ自分にまた苛立った。ここにガルマがいるのに、どうしてまた一人で腹を立てているのだろう。
 放っておけばどこまでも沈んで行ったであろう思考を、可憐な声が遮った。
「イセリナか?夜分にすまない」
 私がイセリナに、ガルマが帰れそうにないと伝えている後ろで、ガルマがイセリナの名前に番犬のように反応した。
「イセリナ!」
 ガルマはがちゃがちゃと、おそらく酒瓶やらグラスやらをなぎ倒しながら騒々しくこちらにやってきて受話器を奪おうとしてきた。
「そうしてもらえるか。申し訳ないが」
 後ろから伸びてくる手から逃れながら話を続けると、ガルマはわあわあと喚き(なにを言っているのか理解できないがとりあえず不満そうである)、私の腰に突撃して腕を回して転ばせようとしてきた。
「いいから寝てろ!」
 酔っ払いを後ろ足で蹴飛ばして遠ざけると思いのほか破壊的な音がした。
『あの…大丈夫ですか?』
 イセリナが心配そうな声を出した。ちらりと振り向いて目で確認するとガルマは床に伸びている。
「大丈夫だ」
 多分。
「ああ、では明日迎えが来るまでに準備させておくよ。いや、こちらこそすまない」
 イセリナとの電話を切ると、とりあえず部屋を掃除した。こんな状態の部屋をひとに見られるのは、たとえそれが使用人でも我慢ならない。
 ひとしきり片付けてから顔を上げると、ガルマは私に蹴飛ばされたときのままのおかしな体勢で床に転がっていた。
「おい、起きろ。寝るならベッドで寝ろ」
 首がすごい方向に曲がっている。死んだかもしれない。
「ガルマ」
 腕を掴んで無理やり立ち上がらせると、むにゃむにゃと何事かを伝えようとしていたが無視した。ガルマの頭を壁やらドアやらにぶつけながらほとんど引きずっていると、じわじわと覚醒したガルマが意味のわかる言葉を発した。
「…どこにいくんだ」
「寝室だ」
「はみがきは??」
 べろべろに酔っ払っているくせに妙なところを気にする。
「明日にしろ。明日の朝に」
「いやだ!」
 ガルマは唐突に馬鹿力を出して私の腕から抜け出し、勢い余って壁にぶつかりながらどたどたと洗面所に続く角を曲がって行ってしまった。
「おい!転ぶぞ!」
 慌てて後を追って洗面所に行くと、さきほどの元気はどこへやら、ガルマは洗面台に片手を伸ばした状態でマットの上にぐったりと座り込んでいた。
「頼むから大人しくしてくれ……」
 私がガルマのそばに屈み込んで心底うんざりしながら言うと、その空気を感じたガルマがろれつの回らない舌でごめんなさいと素直に謝ったので罪悪感を覚えた。理不尽だ。
「歯磨き、するのか?」
 なんだか負い目を感じたのでため息混じりに尋ねてやると、ガルマは、ん、と返事をしてかすかに首を縦に動かした。私は立ち上がって新しい歯ブラシを探した。自分で買っていないからどこにしまってあるのかわからない。ガルマは何度も泊まっているが、その度に同じことをしている気がする。今度メイドにガルマの歯ブラシはいちいち捨てなくていいと言っておこう。
 一拍遅れて、自分の思考に驚いた。いやそれはおかしいだろう。動揺して手元が狂った。棚のコロンやらワックスやらの雪崩を起こしてしまい、洗面台に落ちてぶつかる騒々しい音が空気を割った。音に反応してガルマがかすかに声を出したのでまた心臓がはねた。
 どうにか未使用の歯ブラシを発掘して、タコのようにふにゃふにゃのガルマの代わりに仕方なく磨いてやることにした。
「おい、口を開けろ」
 ガルマは歯医者に来た子どものように大きく口を開けた。久しぶりにガルマの不細工な顔を見た、などと思って手元の注意を疎かにしたのがいけなかった。喉に思い切り歯ブラシをぶつけてしまい、ガルマがえずいた。あ、と思ったときにはもう遅かった。


「そうだ!」
 私が叫ぶとガルマはのそのそとシーツから顔を上げた。
「…今度はなんだ」
「君、吐いただろう、そういえばなんか臭いぞ」
「吐いたけど。それで服が汚れたのに君が服は貸さないとか言うからこうして大人しく裸でシーツにくるまってるんだろう」
 飄々とのたまうガルマを足で遠ざけた。
「なにが大人しくだ!出ろ、シーツが汚れる!」
「裸で椅子にでも座らせるつもりか?!虐待だ!」
「なにが虐待だ、いい年のくせに!」
 ガルマは驚くべき胆力で落ちかかった上体を起こし、私の首にしがみついて締め上げた。
「君のほうが老けてる、絶対に!」
「わかった、わかったから離せ!」
 私が降参するとガルマはあっさりと手を離し、はーやれやれ、などとわざとらしく零しながらしっかりとシーツに潜り込んだ。数時間前まで酔っ払って自失していたくせに、酔いが醒めたら途端にこの態度だ。
「もう起こさないでくれよ」
 そう重々しく告げるとガルマは固く目をつぶった。
「……映画は?」
 私のつぶやきに返って来たのは寝息だけだった。おやすみ三秒だ。子どもか。
 こっちは痛む首のせいで到底寝られそうにない。枕を背中のうしろに入れ、とりあえず映画の見やすい姿勢にしてみる。やれやれ、はこちらの台詞だ。筋の引き攣る首元に手をやりながら、無防備なガルマを見下ろした。 私だって今更ガルマを抱く気はさらさらないが、あまりにも警戒心がなさすぎるではないか。仮にも昔そういう仲だった男に対して。
 布団から出ている顔が寒いのだろう、ガルマが私の腰骨のあたりに頬をすり寄せた。情け程度に毛布を引っ張りあげてやる。

 君を私の何と呼んだらいいかずっとわからないでいる。

 親友、恋人、上官、親の仇、いまは敵対勢力の長。すべてほんとうのことだが、同時にどれでもないとも思う。
 自ら葬ったつもりでいたくせに、君が居てくれたらと身勝手な後悔をすることは何度もあった。ありふれた日常のなかでふとなにか感傷的なものが胸をかすめるとき、どこにも居るはずのないガルマのことを探した。夜明けの太陽に照らされてきらめく街の、まだ車ひとつ走っていない交差点を一人横切るとき。雨が上がり、傘を閉じて見上げた空が眩しかったとき。
 そうして君に再会したとき、けれど私に言えることはなにもなかった。いや、言葉は私のなかにあったのかもしれない。しかし私はそれを無視した。そして、それがなんだったのかほんとうにわからなくなって、もう二度と掴むことができなくなってしまった。
 私たちは、相手の一番欲しいものが自分ではないということを知ってしまった。互いに傷つけ合いすぎたし、つまらない部分を知りすぎた。 もうなにも期待できない。
 それでも。
 映画の内容はまるで頭に入らない。瞳の表面を滑って流れていく。
 それでも、いまこうして二人寄り添っている。とりあえずたぶん、夜明けまでは。
 映画はいつのまにかクライマックスらしい展開を繰り広げている。雨の中、主人公がヒロインを見つける。ずぶ濡れの二人の間にはなぜか猫がいる。ようやく口づけを交わす二人の上にハッピーエンドの文字が被せられる。そしてオーケストラが流れる。ありふれた愛の歌だ。
 スタッフロールが流れはじめて白黒のバランスが変わった。その明滅する光に刺激されたらしいガルマが、不満気に唸って薄く目を開けた。首をわずかに捻って、横目で画面を見やる。
「おわってしまったのか?」
 ガルマは夢の中に片足を突っ込んだまま、ふにゃふにゃとした声を出した。眠気を伴って火照ったそれは、ぽて、と間抜けな音を立ててベッドの上に落ちた。ガルマのつぶやきに応えてやろうとして、出来なかった。なにかが溢れてしまいそうで。言葉が出ない代わりに、ガルマの髪をそっと撫でた。愛の歌はまだ終わっていない―私たちは同じ虹の端を追いかけて流れているんだわ。月影の浮かぶ川の、あの弧を描くところを超えると掴めるはずの虹の終わりを―。
 納得がいかない。私はいつから、こんなに安っぽい男になってしまったというんだ。
 髪を撫でる手にガルマは心地よさそうに目を閉じて、またシーツに顔を埋めるとたちまち夢の中に帰っていく。

 どうしてだろう。
 私の問いかけに、遠い日の子どもたちのクスクスと笑うのが聞こえる気がした。そんなこともわからないの?おかしいね。おかしいねえ。愚かな大人たちを見て、桜の花びらのような可憐な唇で、ちいさな耳にささやき合っている。

 天使たちはただ笑うだけで、私に教えてはくれない。ただこれだけの夜がまるで奇跡のように思える、その理由を。




**********




 パキ、パキン。薄い金属の折れるような音が、どろりと重い眠りの水底に蹲るシャアの意識を揺すった。シャアはその耳触りな音に眉を顰めた。まだ夢を見ていたいのに。シャアは抗おうとしたが、金属が鳴るたびに水面に波紋が広がり、意識は否応無く引き揚げられる。音と音の間隔は徐々に長くなっていく。
 シャアは観念して目を開けた。どうやら自分は床で寝ていたらしい。いつも後ろに撫で付けている髪が乱れている。窓から差す光が照らし出す部屋に見覚えはなかった。それなのに、ずっとここに居たような気もした。思考がまとまらず、シャアはそれについて考えることを放棄した。そこは子ども部屋のようだった。おもちゃやぬいぐるみが床に散乱しているし、壁紙は青空の柄だ。シャアは自分の眠りを妨げた音を再び耳にした。それはオルゴールだった。床に置かれたそれは今にも止まりそうだ。何とはなしに手に取ってネジを巻いてみると、雑音でしかなかった金属音がひとつのメロディになった。どこかで聞いた曲だが、一体どこで聴いたのかわからなかった。オルゴールを床に置くと、振動で音が揺らいだ。その一瞬のきしみが、シャアの記憶の襞を引っ掻いた。
 そうだ、これは。
 さっきの夢で聴いたのだ。あの映画の終わりに流れた曲だ。それがなぜここに?
 怪訝に思い部屋を見回すと、塞がれた暖炉の上の写真立てが目に留まった。近くでよく見てみると、それはあるはずのない写真だった。自分とガルマとムラタと、シャアという名前の、自分そっくりな青年。なにかの演習だろうか、迷彩服に身を包んだ四人が並んでいる。
 あれは夢だ。こんなことがあったはずはない。ガルマだって、ムラタのことを知らなかったではないか。いや、それも夢だったか?それでは、私はいまも夢を見ているのだろうか。
 シャアは自分の思考の靄がかかったように判然としないことに苛立った。ため息を吐いて天を仰ぐと、天井から吊られたいくつもの子どものおもちゃに気が付いた。チェーンのように連なった星のレプリカや、ミニチュアのモビルスーツや軍用機が、磔にされたように微動だにせず浮かんでいる。見覚えのあるものもないものもあった。シャアはそのひとつに手を伸ばした。丸みを帯びた紫色の、空を飛ぶ豚のような空母。まるでガルマそのものみたいだ。今になって初めてそう思い、シャアはひとりでひっそりと笑った。ここにはすべての自分とガルマの思い出があるように見える。それならば、これに乗っているのが私のガルマなのだろうか?
「豚はひどいんじゃないか?私だって、けっこうスタイルはいいと思うんだけど」
 シャアは声のほうを振り向いた。その人は後ろ手にそっと扉を閉めると、まあ君ほどじゃないけどね、などと言って笑った。シャアは驚かない自分を不思議に思った。ひどくぼんやりとしていて、なにもかも曖昧に感じられる。
「君がなかなか呼んでくれないから、ずいぶんと道に迷ってしまったよ」
 ガルマは不服そうにぶつぶつ言いながら部屋を横切り、カーテンをきっちりと閉めた。そしてシャアの隣に来ると、手に手を重ねて、小さなガウを下に引っ張った。すると、天井から吊られた星々が光りはじめ、壁紙の青空は星空に変わった。安っぽい人工の、黄緑がかった光が部屋を包み込んだ。
「でも楽しかったよ。君はどう思った?」
 穏やかに問い掛けるガルマは、シャア自身の世界で最後に見たときのままの姿をしていた。重ねられたその手が自分のそれよりも小さいことに気付いたとき、シャアは自分が泣いていることを知った。まるで泣くために泣いているみたいに、涙はあとからあとから切れ目なく溢れて来た。何か言って取り繕おうとしたが、喉の熱いかたまりが邪魔をして、しゃくりあげることしか出来ない。シャアは子どものように泣いた。そして、ガルマが膝を折って自分と目線を合わせてくれたとき、ようやく自分がほんとうに子どもになっていることに気が付いた。滲む視界の中で、人工の夜空は現実の星々よりも美しく光り輝いていた。その完璧な宇宙の中にガルマが居た。
 こんなふうに輝くものを、ぼくがガルマにあげたかったのに。そう思い、シャアは途方もなく悲しい気持ちになった。シャアはつっかえながら、やっとのことでガルマにそう伝えた。けれど自分はいまなにも持っていないということに気付いて、更に目元が熱くなった。ガルマは小さくなったシャアの身体をやすやすと腕の中に閉じ込めた。そんなこと気にしなくていいのに。ガルマがそんなふうに笑うのが、自分の熱い息遣いの合間にかろうじて聞こえた。ガルマの子どもっぽさを残した柔らかな手が何度も背中を撫で、呼吸は少しずつ穏やかさを取り戻していった。シャアが落ち着いたと知ると、ガルマはぴたりと触れさせていた身体を離して、真正面からシャアに微笑みかけた。
「じゃあ、それをくれるかい?そのきれいなものを」
 ガルマの指し示すところ、自分の心臓のあたりがぴかぴかと光を放っているのをシャアは見た。
「もちろん」
 シャアが心臓の上でぎゅっと手を握り、それをほどくと、手の平にはまばゆい光を放つ星がひとつ、くるくると廻りながら浮かんでいた。それはシャアの心に従ってガルマのほうへふよふよと飛んでいった。その瞬間、不意に体の真ん中を冷たい風が吹き抜けたように感じてシャアは恐ろしくなった。ほんとうにこれでよかったのだろうか?
 ガルマはおそるおそる星に触れ、それが逃げ出さないことを確かめると、ふわりと両手で包み込んで頬に寄せた。秘密のプレゼントを見つけた子どものように、とろりと顔をほころばせて言った。
「きれいだな。それに、あたたかい」
 ガルマは目を細めてシャアを見つめた。指の隙間からあふれ出る黄金色の光がガルマの髪や瞳や唇を染めるのを、シャアは幸福な気持ちで見ていた。あの星がなんであってもいいと思いなおした。ガルマが笑っているからいい。
「シャア、もうおやすみ」
 そう言ってガルマはまたシャアを抱き締め、頭を撫でた。もう二度と怖い夢は見ないよ。ガルマが言った。




**********




 どこかの宇宙の夢をみた。
 シャアは寝起きの頭でぼんやりとそう感じたが、夢の記憶は瞬く間に薄れて行く。夢で見た星の名前を確かに知っていたと思ったが、もう思い出すことは叶わなかった。
 シャアはベッドから出るとカーテンを開けた。窓を開け放つと朝の冴えたにおいが流れ込む。空はようやく白み始めたところで、コロニーの街はまだ眠ったままだ。
 そういえば、昨晩ワインをそのままにして寝たのだったと思い出し、ベッドサイドを見ると、グラスは空になっていた。寝ている間に誰かが片付けたのかと思い部屋を見回したが、他に変化は見られなかった。いつもの部屋、いつもの家具、いつもの電気。けれどまったく違うものに見えた。なんだこの部屋は。こんなのは、まったく私にそぐわない。そして突然にひらめいた。
 そうだ、模様替えをしよう。
 いったん思い立つと、それがとても素晴らしい考えに思えた。しかし、とシャアは顎に手を当てて思案した。勝手に変えてはナナイに悪いだろう。彼女なりに私のことを思って取り揃えてくれたはずなのだ。
 ナナイも連れて選びに行けばいいか。シャアは早く話を進めたかったが、まだナナイは寝ているだろうということに思い至り、内線をかけようと上げた受話器をまた元の場所に戻した。
 一緒に家具を見に行こうと行ったら、ナナイは驚くだろうか。きっと驚くだろう。ナナイの反応を思い浮かべると、シャアは愉快な気持ちになり、知らず口元に笑みが浮かんだ。




**********




 シャアがいなくなった子ども部屋で、ガルマはひとりそのときを待った。彼はそれほど待つ必要はなかった。天井の光が震えはじめ、一つずつぽとぽとと地に落ちる。地に着いた星は光を失い、ガルマにはそれらがどこに落ちたのか知ることはできなかった。ガルマはそれらに混ざって、自分の指先がぽろぽろと星になって落ちていくのを見た。崩れ落ちる器官はしだいに刺激を取りこぼして行く。徐々に、星の光も、腕に残った子どもの暖かささえも感じなくなる。ガルマは目を閉じてそれを受け入れた。
 私は地球の土に眠るけれど、君はきっと宇宙で死ぬのだろうな。濁った意識でガルマは思った。
 アースノイドはいい。彼らは間違いなくひとつの星の、ひとつの自然から生まれて、そして還っていくという気がするから。
 スペースノイドにも、還るべき自然の流れはあるのだろうか。あるいは、地球とコロニーの天国は同じなのだろうか。
 身体があるべきところへ帰るのを感じながら、駆け回る子どもたちの影を見た気がした。ああ、すべて私だったのだなとガルマは思った。何度もあの扉をくぐったのも、それを許したのも。どこかの世界の、どこかの星の君と私のことだ。ガルマはすべての過去と未来の二人を想った。それは光だった。


 やがて誰もいなくなった。再び呼び出されるときまで、古びた扉は静かに眠りについた。暗闇のなかに、ただ輝くひとつの星だけが残った。





----------
2013.02.25

web拍手 by FC2

←戻る
inserted by FC2 system