真っ黒の排ガスとともに、車が一台ダイナーの前に斜めに停まった。くすんだライトブルーの車から、ブロンドの男が一人降りる。他には誰もいない。遠くの地平線でようやく空が白みはじめようかという時間だというのに、男は大きなサングラスをかけていた。
ダイナーは、砂と土に覆われた国道沿いの大地にただひとつぽつりと建っている。看板も窓もすっかり砂を被っていて、いつ営業しているのかを知らせる気がないように見える。それにもかかわらず、男は迷わずダイナーの入り口へ歩いて行き、砂にまみれたドアを押した。
「朝までやっているダイナーがあるという噂を聞いてね。コーヒーとハンバーガーだけでも出してもらえないものかな」
男はずいぶんと使い古した様子のブーツで、ずかずかとカウンター席に向かった。そしてしなびた革のシートに腰掛けると、分厚いサングラスを外し、青い瞳でカウンターの向こうの店主を見た。
「…早朝にしか来たことがないくせによく言う」
店主は読んでいた新聞を折り目を無視してぐしゃりと畳むと、呆れたように少し笑った。シャアもそれに応えて少し頬を歪めた。
「相変わらず私しか客がいないな、ガルマ」
「こんな時間だからだ。まともな時間には君の冗談になんか付き合っていられないくらい忙しくしてるさ」
だからご心配なく。
言いながらガルマは腰を上げ、レコードをかけた。ナット・キング・コールの定番のジャズ。流行に疎いシャアにもその曲名はわかった。渇いた店がたちまち潤いはじめる。それからガルマはコーヒーかハンバーガーの準備を始めた。
「コーヒーとハンバーガーでいいのか?今日はオムレツでもいいが」
シャアは働くガルマの背中を眺めながらタバコに火を着けた。
「いや、いい」
登る紫煙を追いかけて目を上げると、凸レンズのように歪んだ天井に映る自分と目が合った。そして記憶を確かめ合う。いまみたいに、卵を消費したそうなガルマにつられてうっかり頼んだオムレツはイマイチだったな。あれはこの前来たときだったか、その前だったか。ぐにゃぐにゃと歪むもう一人のシャアは、もちろん答えを知らなかった。
分厚い木のカウンターと食器が触れ合う音がして、シャアは視線をぼんやりと下に戻した。コーヒーの注がれたマグカップの横に、いつのまにか灰皿があった。タバコを押し付けると、底にプリントされた店の名前が見えなくなった。
「今回はまた早かったな。一週間か?二週間か?」
ガルマはハンバーガーの乗った皿をシャアの前に置いて尋ねた。
「10日だ」
シャアはなんでもないように言った。しかし、シャアがそれを気にしていることはガルマにはわかっていた。
自分のほうを見ずに食事をはじめるシャアを見下ろしながら、ガルマは密やかにため息を吐いた。
「いい加減西へ行くのなんか諦めたらどうなんだ」
ダイナーはアメリカを東西に走る国道のすぐそばにある。しかしその道はほんとうのところ一方通行だ。目指すは西。フロンティアライン。それだけがこの道の行き着く場所だ。
「私は西へ行く」
シャアはそう言い切ると、また一口ハンバーガーを齧った。
ガルマはちりりと肌が熱くなるのを感じた。この馬鹿男、いい加減目を覚ませよ。そうやって何度も何度もここに戻って来ているくせに。道中の銭稼ぎの仕事で誰かともめたとか、たちの悪い風邪を引いたとか、そんなくだらない理由で。
「フロンティアラインはとっくの昔に消滅した。新世界はもうないんだよ」
ガルマがぴしゃりと言い放つと、二人の間には沈黙が流れた。レコードだけが変わらずに歌っている。
口が過ぎたか、とガルマは思ったが、シャアはちらりと目を上げてガルマを見ただけだった。
「…私は西へ行く」
シャアはいかれたレコードのように同じ言葉を繰り返した。
ガルマは聞こえよがしにため息をつくとカウンターの中の椅子に座り、新聞を開いてシャアを視界から締め出した。シャアはしばらく新聞ごしにガルマを見つめていたが、結局何も言わずに立ち上がった。くしゃくしゃの1ドル札を何枚かジャケットのポケットから取り出してカウンターに置くと、ダイナーを後にした。
ドアベルの余韻すらも消えてから、ガルマはばさりと新聞を膝の上に伏せて顔を上げた。そうしてやはりそこに誰もいないことを確認すると、ふうと息を吐いた。疲れの現れはじめた顔で、残された1ドル札と食器と、一本のタバコのためだけに汚れてしまった灰皿を眺める。灰皿からタバコを救出し、店の名前の入ったマッチでもう一度火をつけた。吸いさしのタバコの熱は、一息吸うだけですぐに指に迫る。煙を細く吐き出しながら背もたれに寄り掛かり、歪んだ天井を見た。見慣れた天井。なにもかもずっと変わらずにここにある。砂に埋れて、このまま化石になってしまいそうなダイナー。
「私がこんな時間に店を開けてるのは誰のためだと思ってるんだ?」
西へ行くなら行ってしまえ。そしてちゃんとボロボロになって戻ってくればいいんだ。二度と遠くに行けないくらい。
聞く者のいない恨み言を嗤うかのように、レコードは愛の歌を紡ぎ続ける。
"君の魅力がなんのためにあるかわからないのかい?
私の両腕がなんのためにあるかわからないのかい?
想像力を使ってくれよ
君だけ 私だけ
君はほんとに私の頭痛の種さ
ずっと君が恋しいんだ
どうしようもないくらいに"
終
2014.07.29
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