今日の世界の歩き方
※無料配布本に載せた短い話です※


「天国みたいだな、ここは」
 ベランダの安楽椅子から夕日を見ているシャアに、部屋の中から現れたガルマが声をかけた。シャアはグラスに口を付けながら、視線だけをそちらに向けた。背の低いテーブルを挟んで反対側の椅子にガルマは腰掛けた。シャアの了承など待たずに、部屋の中から勝手に持ってきたらしいシャアのものであるグラスにテーブルの上のペリエを注ぎだす。
 シャアとガルマはグラスを手に、黙ってベランダからの景色を眺めた。そこからはオレンジ畑と、その向こうの海と、そこに沈みゆく夕陽がよく見えた。柔らかく砕ける波の音だけが聞こえる。ときおり、生温かい潮風が肌を撫でて行く。シャアとガルマは、太陽が水平線の向こうに隠れて見えなくなるまでそれを見つめていた。
「このままここで死ぬつもりか?」
 ガルマは海に顔を向けたまま言った。沈んだはずの太陽はまだ光を失っておらず、ガルマの横顔を赤く染めていた。
「…生きていたのか」
 シャアがようやくそれだけを言うと、おかげさまで、とガルマは軽口を叩いた。
「ここで思い出だけを糧に時間を食いつぶすつもりか?四十歳やそこらで、まだ大した思い出も無いくせに」
 こんな毒のないものなんか飲んで。そう言ってガルマは自分のグラスを軽く揺らした。
 放っておいてくれ。シャアは心の中で呟いた。もうじゅうぶんだ。私にだって、喜ばしいことも泣きたくなるようなこともたくさんあったのだ。
「老後の肴にするには、思い出が足りないだろう。私が思い出作りに協力してやろう。地球一周なんかどうだ?時間だけはあるんだろう」
 ガルマはおせっかいにも、どこの国はなにがよかっただのと楽しそうに語り始めた。彼は身分を隠して地球で生きてきたらしく、聞いてもいない地球の土地のことをべらべらと喋る。別荘のある南フランスではどんなに豊かに時間が流れるかとか、最初に生活することになったニューヤークで初めて体験した地下鉄というものの運ぶ乾いた哀愁だとか、仕事で滞在した北欧の、凍った海が割れて春が訪れるときの圧倒的な迫力だとか、主観的な感想を次から次へと述べた。
 もしかして、私はいま口説かれているのだろうか。ふとそんなことを考えてみて、シャアは少し愉快な気分になり、胸の内だけでくすくすと笑った。ガルマは多分、でたらめに数を撃って、私に理由を与えようとしているのだ。ガルマと一緒に行く理由。
 ガルマの一方的に語る世界の風景について、シャアはやはり一切興味を持てなかった。しかし、ふと目をやったときに気が付いた、ガルマの髪の不思議な色合いに一瞬目を奪われた。記憶にあるよりずいぶんと伸びたそれは光の青さだけを反射しているかのようで、赤い夕陽に照らされていながら青く冴えていた。それが地球の夕焼けのなかで、こんなふうに輝くのを知らなかったことに驚いた。うんざりするほど一緒に居た気がしていたのに。

 ガルマはなおも朗々と語り続けていたが、もはやシャアの耳はそれを脳に運ぶことをやめていた。 シャアは瞳を閉じてただ想像した。この髪の毛は、南仏の空の下で、どのように色づくのだろう。あるいは、凍りついた海のそばで、都会の地下鉄のにぶい明かりのもとで。
「これが理由でいいか」
 シャアはつぶやいた。これでいいか。とりあえず今日のところは。
「なんだって?」
 突然横槍を入れられて、ガルマはきょとんとした顔で問い掛けた。それには答えずにシャアは立ち上がって海に背を向けた。
「行くなら早く連れて行ってくれ。ここは汽車が少ないんだ」

 明日は明日で、また探せばいい。明後日も、その次も。
 理由が尽きたら、今度こそ私の旅が終わる。それだけのことだ。

 シャアは振り返り、たなびくカーテンの隙間から、やれやれと腰を上げかけているガルマをもう一度見つめた。それから、今日の空の色を。




----------
2013.03.26


読みました(拍手)

←戻る                   
inserted by FC2 system