出てくる人がわりとフランクなしゃべりかたをするので苦手なかたはご注意ください。よろしければどうぞ↓↓↓
※扉間一人称




 穏やかな陽光の下、のどかな街並みを眺めながら墓地を目指して歩いていた。共同墓地は里の外れの小さな丘の裾野に広がっている。木々と芝生の緑に満ちた美しい場所だ。道の先に墓地を囲む長い塀が見えてきたところで、俺はまさにその入り口をくぐろうとしているマダラを見つけた。そのとき、マダラの持っている包みからひとつのおにぎりがぽろりと落ちて草の上を転がった。マダラは気付かずに、墓地の奥へ奥へと歩いて行ってしまう。そこにイズナの墓があるのだ。イズナの墓になんて行ったことがないのに、俺はなぜかそれを知っているのだった。マダラの知らないところで、坂もないのに、おにぎりはころころと転がっていく。俺は不思議とそうせねばならぬという強い使命感に駆られ、転がるおにぎりを追いかけはじめる。
 おにぎりは器用に角を曲がり、障害物を避け、どんどん墓地を離れていく。速度を上げて、止まることなく里の中を転がり続ける。気づけば走って追いかけていたがそれでも追いつけない。いつの間にか自分がどこを走っているのかもわからなくなっていた。人けのない道を走る。すると、急におにぎりが視界から消えた。慌てて角を曲がるも、そこにはただ陽の光に照らされた長閑な路地が続いているだけだった。俺はひどい焦燥感に駆られて不安になる。それを絶対に見失ってはいけなかったのに、と深い後悔に苛まれる。取り返しのつかないことをしてしまったと苛々しているうちに、その夢の中の不快感で目を覚ます。

 ここのところ、毎日同じ夢を見る。

 夢から覚めて自室の天井を見ても、夢だったということにすぐには気付かない。暗闇の中でしばらく混乱したあと、ようやく夢だと理解して冷や汗を拭う。大抵、元々起きようとしていた時刻より遥かに早く目覚める。悪いときは四半時も寝られない。二度寝を決め込もうとしても、夢の中の焦燥感の名残で頭がじりじりして二度目の眠りは訪れない。まんじりともせず、立夏を過ぎたばかりの気の早い蝉の声が聞こえてくるまで無為に過ごすのだ。
 最初はなんでもない夢だと思った。しかしそれが三日続き、一週間経ち、ひと月になり、真っ昼間から舟を漕ぐようになってしまったら、なんとかしなければという気にもなる。これはもはや立派な睡眠障害だ。
 まず枕を替えてみた。布団の向きも変えてみた。寝る部屋を変えた。畳の上に座ったまま眠ってみた。そういえば香を焚いたときもあった。それでも同じ夢を見続けた。
何をしても事態が好転せず、俺はとうとうイズナの墓参りに行くことにした。そうするべきなのではないかという思いは早くからあった。それを実行に移すのはいくつかの点で気が重かったのだ。認めたくないが、それは単純に感情の問題だった。しかし、これほど象徴的に夢に出てくる場所なのだ。行けば何かあるのかもしれない。まさかとは思うが、もしかしたらいわゆる死者の祟りなのかもしれないという考えも頭の中にあった。いずれにせよ根拠の弱い発想だが、俺はもうこの厳しい不眠を脱するためならどんな胡散臭いことも試そうという気持ちになっていた。俺が花を手向けることで、地獄だか天国だかの奴が溜飲を下げるのならばやってやろう。墓地に行く前に大通りの花屋に立ち寄り、名前も知らない小さくてぽろぽろしている白い花を買って行った。
 膨大な数の墓標からイズナの墓を探すのは骨が折れるだろうと思っていた。しかし墓地に着いたところでマダラの姿を見つけ、その懸念は早々に解消された。きっと奴がいるところにイズナの墓があるのだろう。
 早朝にも関わらずぽつりぽつりと見られる墓参者とすれ違いながら、マダラのもとへ歩いていく。俺が傍らに立つと影が落ちて、芝生に座り込んでいたマダラは自然顔を上げた。風が吹いて長い髪が暴れるのを無造作に手で抑え、眉根を寄せて目を細める。そのあからさまに不機嫌そうな顔を見て何も言えなくなる。
「……誰の墓参りだ?」
 かける言葉を探しているうちに、マダラのほうから声を掛けられた。
「……イズナの…」
 俺がようやっとそれだけを言うと、マダラは何も言わずに、そのまま眩しそうに俺を見つめた。俺の後ろの太陽が眩しいから険しい顔をしているのだとようやく気が付く。
「……外したほうがいいか?」
 マダラがどこか柔らかい声で尋ねた。こいつにそんなことが言えることに驚いた。ここに来ることを、激しく拒まれるかと思っていた。
「あー……別にいい……」
 俺の答えを聞いて、マダラは何も言わずに腰を浮かせて少し横にずれた。俺はおずおずと墓の前に立ち、持参した花を、マダラが持ってきたであろう包みの隣に供える。ひと月も見続けた夢のせいで、包みの中身はきっとおにぎりだと思ってしまったが、本当にそうかはわからない。
 手を合わせて目を閉じた。次の瞬間からもう思考を持て余す。これ何秒くらいやればいいんだ?墓参りなんかろくにしたことがないからわからない。
 こういうのは残された者のための行為だと思っていた。そして自分には必要ないとずっと思っていた。なにより向いてない。だが、今度弟たちの墓にも花を持って行ったほうがいいだろうか。イズナの墓参りをして実弟たちの供養をしないのも変な話だろう。
 そんなことをつらつらと考えながらぽかぽかとした陽気の中で目を閉じていると、なんだか眠くなってくる。そういえば今朝も早く目が覚めてしまったのにバタバタしてたら朝飯を食いっぱぐれたし、血糖値が足りない。昼飯を食う前に何か腹に入れないと。
 どんどん逸れる思考に、何をしに来たのか一瞬忘れてしまい、そんな自分に呆れた。

 …やっぱり向いてないな。

 諦めて合わせていた手を下ろす。これで一応格好は付いただろう。本当に格好だけだが。
 ノルマは果たしたという気持ちになり、もう帰るつもりだったが、マダラが墓前に供えた包みを広げてこちらに差し出してきた。果たして、そこに乗っていたのは本当におにぎりだった。
「…こういうの、食っていいのか?」
「食わないなら俺が持って帰る。置いておいたらネコに荒らされるだけだ」
 そういうものかと思い、マダラの隣に腰を下ろして、ふたつあるおにぎりのひとつを手に取った。マダラは残ったひとつを取ると、竹の包みを懐にしまった。
 俺がおにぎりに口をつけるのをマダラはじっと見ていた。なにか仕込んであるのではないかと少し不安になる。見た目はなんの変哲もないおにぎりだ。というよりはむしろ、お手本のようなおにぎりだった。きれいな三角形に、小さい海苔が一枚巻いてある。居心地の悪さを感じながら、半ばやけくそになって口に入れた。
 その瞬間、頭の天辺から足のつま先まで衝撃が走った。
 塩辛い。ありえないくらい塩辛い。一瞬意識が遠のいた。
 わざとか?俺への嫌がらせなのか?
 文句を言おうとしてマダラに向き直ったが、マダラは何食わぬ顔で自分のぶんを咀嚼しながらじっとこちらの様子を見ていた。マダラにとってはこれが普通なのだろうか。それとも俺は試されているのだろうか。悩んでいるうちに、結局文句ひとつ言えずに完食させられてしまった。
「じゃあ……俺はこれで……」
 食べ終えて腰をあげると心なしか立ちくらみがした。塩分の過剰摂取で脳の血管が爆発しそうだ。
「俺も」
  そう言ってマダラも立ち上がったので、自然と2人で同じ仕事場へ向かうことになった。誰にも強制されていないのに二人で並んで歩くなんて、なんだか妙な感じだ。隣を歩くマダラをこっそり見下ろすと、いつも通り辛気臭い顔をしていて何を考えているのだかわからない。目的地に着くまでろくに会話もなく、ただ黙々と歩いただけだった。


 その日の夜も、夢を見た。
 俺はおにぎりを追いかけて里中を駆け回る。いつもおにぎりに撒かれる角で、しかし今日は見失わなかった。代わりに、おにぎりが穴へ落ちていくのを見た。まさしくおにぎり大の穴を覗き込むが、中の様子を伺い知ることができない。もどかしい。すぐそばにあるはずなのに。そう思ったところで目が覚めた。それからなかなか寝付けなかったが、朝方に少しだけ眠った。

 この夢の変化はなんらかの進展なのではないか。そう思った俺は、今朝も墓地に行くことにした。
 イズナの墓の前に行くと、昨日と同じく先客がいた。
 マダラは俺を見上げると、今度はなにも言わずに少し横にずれた。毒にも薬にもならない花の名前など知らないが、とにかく昨日と違う花を墓前に置いた。マダラの隣に座る。無言の俺たちのあいだを、初夏のさわやかな風が吹き抜ける。
「……今日はまともな花だったな」
「何?」
 マダラが俺の花を見て冷やかすように言った。
「昨日のあれ、オマケみたいな花だったろ。主役の花の周りに添えるようなやつ」
 昨日の花を思い出したのか、マダラはくっく、と肩を揺らして笑った。
「……なんでその場で言わないんだ」
 決まり悪さに、つい責任転嫁するようなことを言ってしまう。
「お前があんまり神妙な顔をしていたからな」
  そうだったか?今日はマシな顔だろうか。頬をぎゅうぎゅう擦ってみる。
「別にそんな細かいことは気にしなくていい。ただちょっと面白かっただけだ」
  ほんのりと笑みを浮かべたまま余裕綽々の態度で俺の失態を拾うマダラに、つい憮然としてしまう。マダラはおにぎりの包みをほどいて、昨日と同じように俺の前に差し出した。なんだか機嫌を取られているような気がして、その子ども扱いとも思える対応にまた居心地が悪くなる。
  俺がおにぎりを口に運ぶのを、マダラはまたじいっと見ていた。どうしてそう凝視するんだろうか。正直言って食べづらいんだが。そう思いながらもなぜか口には出せない。ここは―イズナの墓の前は―マダラの領域だという意識があるからかもしれない。俺は闖入者に過ぎない。
  おにぎりは今日も、涙が出るほどしょっぱかった。具の昆布が甘かったから多少中和されたのが救いだ。


 その夜も夢の中でおにぎりを追いかけていた。おにぎりは穴へ落ち、俺は穴を覗き込むが、やはり中の様子は知れない。今度は地面に耳を当ててみた。しゅわしゅわと泡の弾けるような音がする。何かに似ている。それがなんだったか考えていると覚醒してしまった。
 起きてみると、まだいくらも眠っていない時間だった。布団の中で寝返りを繰り返すうちに時が過ぎ、寝不足でぼわぼわする頭を抱えて、夜が明けてから墓参りに行った。
  俺が着くと、今日のマダラは初めから俺の場所を空けて座っていた。隣に腰を下ろして花を置く。マダラはちらりと俺を見たきり何も言わない。さらさらと青葉の揺れる音だけが響く。
「……いちいち花を用意しなくてもいい」
  マダラがそっと沈黙を破った。
「お前は毎日持ってきてるだろう。おにぎり」
「俺はいい。だがお前は別にそうする必要はない」
 マダラはなんでもなさそうに言う。
 マダラのことをかわいそうだと思ったことは一度もなかった。けれど、今はじめて、ほんの少しだけそう思った。自分が寂しいことを言っているということをわかっていない。それがやるせなかった。
 今日は昨日よりもおにぎりをしょっぱく感じた。具が塩サバだったからかもしれないし、そうじゃないかもしれない。


 それからも俺は大した変化もない夢を見続けたし、相変わらずろくに眠れなかった。休日とどちらかが遠征の日を除いて、俺とマダラは朝のわずかな時間を共に過ごした。とくに何を話すでもなく、変わらずにしょっぱいおにぎりを食べて、目覚め始めた町を並んで歩いた。変わったことといえば、俺が花を買わずに手ぶらで行くようになったことくらいだった。しかし、マダラがそれでいいと言ったとはいえ、ただ飯を食らうだけというのはやはり負い目を感じる。
 そんなある日、マダラが墓地からの帰り道で―ということは仕事場へ行く途中だが―、大通りを歩いているときに隣からいなくなった。振り返ると、通り沿いの店の前で足を止めている。引き返して後ろから覗き込むと、蕎麦屋の看板だった。今日の売り出しは稲荷ずしらしい。
「買っていくのか?」
「いや、別に……」
 マダラは口ではそう言いながらも、見本で店先に出された一皿の稲荷ずしに名残惜しげな視線を送っていた。買えばいいのに変な奴だなと思ったが、そのまま二人で再び往来に紛れて歩き始めた。

 あくる日の朝、墓前に稲荷ずしを置くとマダラが目を瞬かせた。
「なんで?」
 珍しくきょとんとしたあどけない表情でマダラが言った。
「それはお前にやる」
 俺が目を合わせずに言うと、マダラから怪訝そうな視線を感じた。
 マダラはこちらを伺いつつ稲荷ずしに手を伸ばすと、毒味するように小さくかじった。今更毒なんか盛るか。当たり前だが稲荷ずしは毒味をパスしたらしく、二口目から、マダラはまくまくと大口で食べ始めた。ものを喰っている姿というのはどこか幼稚に見えて不思議だ。
「……なんだ、じっと見て」
 マダラに不満げに言われて初めて、自分がマダラの食べる姿を見つめていたことに気が付いた。
 いやそれは。口に合ったのかどうか気になって。
 そう言おうとしてはっとした。そうか。そういうことなのか?
 俺は問いに答えずに、マダラの持ってきたおにぎりをひとつ手にとってかじった。今日の具は高菜だった。
「…うまい」
 試しに俺が言ってみると、マダラがぽかんとした顔を上げた。
 いや本当はめちゃくちゃ塩辛いんだが。
「だから…美味いって言ったんだ」
 居心地の悪さになんだか言い訳みたいな口調で駄目押ししてしまった。マダラはパッと頬を染めた。
「あ、当たり前だろ!この俺が作ってやったんだぞ!」
 よくわからないケンカ腰でそう言うと、残りの稲荷ずしを口に詰め込み、マダラは勢いよく立ち上がった。
「じゃあな!」
 口の端にご飯粒を付けたまま、あぶらあげの油でてかてかの唇でそう捨て台詞のようなものを吐くと、一人で脱兎の如く走り去ってしまった。初夏の香ばしい風の匂いだけが残される。
「…へんなやつ」
  俺は唖然として見送るしかできなかった。

 次の日、おにぎりが三つに増えていた。
 中身は全部高菜。
 …具が塩サバのときに言えばよかったな、と少し思った。



 また別のある日。俺が墓地に行くとマダラの姿がなかった。たまにはこういうこともあるだろうと思ったが、いつも墓地を去る時刻になっても現れなかったので、家まで行ってみることにした。なんにせよこの時間に家を出てなかったら遅刻だ。
 マダラの家の門戸を、少し迷ってから控えめに叩いてみた。返事はない。静まり返っているが、家の中にいる気配はある。もう一度、今度は遠慮なくガンガン叩くと、家の中からバタバタと足音が近づいてきて、目の前の扉が開いた。
「……え?なんで?」
 ボサボサの頭をしたマダラは困惑したように言った。いかにも今まで寝ていましたという出で立ちだ。
「いや、お前が来ないから」
 俺が答えると、マダラはう~んと唸って片手で顔を覆った。
「……今日休み、だよな…」
 首をかしげながら言われた言葉にハッとした。睡眠という日付の区切りがうまくついていないせいで日付感覚が曖昧になっていた。思ったよりも重症だ。
「悪い……」
 俺が自分の勘違いに少し落ち込みながら謝ると、マダラが一歩後ろに退いた。
「……まあ上がっていけよ」
 そう言って、俺に口を挟む隙も与えずにさっさと家の中に戻って行ってしまう。躊躇ったが、無断で立ち去るのもどうかと思い、及び腰で家に上がった。
 物音のするほうへ行くと、マダラはたすき掛けをして袖をたくし上げ、髪をひとつにまとめて台所に立っていた。
「適当に座ってろ」
 台所の隣の座敷を顎で示される。
「いや…お構いなく」
 お構いなく?
 自分で言っておかしく思ったが、マダラもやはりそう思ったらしく小さく噴き出した。
「構わないわけにもいかないだろ、一応客なんだから。いいから座ってろ」
 あまり遠慮するのも嫌味かと思い、おとなしく座敷に上がることにした。引き戸が開け放してあるため台所とひと続きの空間になっていて、なんとなく台所のマダラを眺める。流しは窓に面した場所に取り付けられていて、こちらからはマダラの背中が逆光になって見えた。どうやら米を炊くらしい。座卓に肘をついてぼんやりしていると、なんだか眠くなってきた。
 こんなにゆっくりと朝の空気を感じるのはずいぶんと久しぶりのように思う。夏の朝は生き生きとして音に満ちている。小鳥の囀りと、仲間たちより早く目覚めた孤独な蝉の長い声。さわさわと鳴る木々の葉が、朝日を浴びてどんなふうに光っているのか、目で捉えずとも頭に浮かぶ気がした。
 マダラは水瓶から水を汲み、米を研いでいる。台所の水の音は、どうして特別なのだろう。ほかの水音とは決定的に違う、台所だけの音。
 なつかしい。そう感じて驚いた。知らないはずのことを、どうしてなつかしいと感じるのだろう。顧みるべき思い出すらないはずの、母親という存在が頭に浮かんだのだ。あるいはこれは、種族的な、遺伝子的な、幸福の記憶なのだろうか。そんなことがあるのだろうか。
 光の差し込む台所を眺めながら幸福な音たちを聞いていると、抗いがたい眠気が押し寄せてくる。そしていつしか意識を手放していた。

 俺はまたしても逃げるおにぎりを追いかけている。おにぎりは器用に角を曲がり、障害物を避け、止まることなく里の中を転がり続ける。すると、急におにぎりが視界から消えた。慌てて駆けていくと、道にぽっかりと穴が開いているのだった。大人でもすっかり通れるほどの大きな穴に、その深さを確かめることもせずに迷わず飛び込んだ。
 穴は大した深さではなかったが、中は真っ暗だった。先を行くおにぎりは闇の中でホワホワと光っていたのですぐに見つかった。見つけてくれと言っているかのようだ。俺はまたおにぎりを目指し始めた。地面は砂のようでいちいち足をとられたが、追いかけっこはすぐに終わった。おにぎりは何かにぶつかってついに走るのをやめたのだった。俺はようやく歩を緩めて、自分を振り回してくれた不思議なおにぎりに向かってゆっくりと歩いていく。近づいてみると、おにぎりの道を阻んだのは人だった。ずっと静かに鳴り続けていた音が何なのか、そのときふと気が付いた。漣だ。ここは浜辺なのだ。

 そこで夢は途切れる。目を覚ましたとき、自分がどこでなにをしていたのかわからなかった。机に突っ伏して眠りこんでいたらしい。顔を上げるとマダラが頬杖をついて、こちらも眠りの中にいた。机の上の皿にはおにぎりが三つ並んでいる。部屋の中は、すっかり傾いた陽の光で真っ赤に染まっていた。周りを観察するうちに、眠りに落ちる前のことを思い出し、他人の―しかもマダラの―前で、こんなにも長い時間寝入っていたことに驚いた。しかし、マダラだって自分の前で無防備に眠るなんてことはなかった。こいつも夢を見ているのだろうか?そんなことを考えていると、マダラがガクッと手から顎を滑らせ、ゆるゆると瞼を上げた。
「……起きたか」
 自分も寝ていたくせに、マダラはそんなことを言う。
「おにぎり、もう傷んだかもなあ」
 あくびをしながらマダラは曖昧な発音でしゃべった。
「……夢を見たか?」
 俺が尋ねると、マダラは嫌そうな顔をした。
「寝言でも言ってたか?」
「いや、そうじゃないが……」
「見ていた気がするが、覚えてない」
 マダラは寝起きの顔でのろのろと片付けをはじめる。ほとんど寝に来たような形になったが、結局その日はそれで帰った。


 それからしばらくして、マダラが墓地に来なくなった。しかし執務室に行くと何食わぬ顔でそこにいるのだ。なぜ来ないのか、来ないにしても一言あってもいいのではないか。そんな思いもあったが、それを言うのもおかしなことだと思い直した。マダラ自身の弟の墓参りのことだ。俺に強制できることではないし、なにか繊細な心変わりがあったのかもしれない。結局それには触れないまま日々が過ぎて行った。しかし、俺は夢を見続けたし、墓参りをする日課を続けていた。

 その夜も、また夢を見るのだろうと思いながら布団に入った。そうと知りながら眠りに就くのに、夢の中の俺は毎回律儀に現実だと思い込み、必死におにぎりを追いかけるのだった。

 俺は穏やかな陽光の下、のどかな人々の暮らしを眺めながら墓地を目指して歩いていた。墓地に入る前に、まさに墓地の入り口をくぐろうとしているマダラを見つけた。そのとき、マダラの持っている包みからひとつのおにぎりがぽろりと落ちて草の上を転がった。マダラはそれに気付かずに、イズナの墓の前に腰を落ち着けてしまった。坂もないのに、おにぎりはころころと転がっていく。俺はマダラとおにぎりを見比べたあと、そうせねばならぬという謎の使命感に駆られておにぎりを追いかけた。
 おにぎりは器用に角を曲がり、障害物を避け、止まることなく里の中を転がり続ける。気づけば走っていたがそれでも追いつけない。いつの間にか自分がどこを走っているのかもわからなくなっていた。誰もいない知らない道を走る。すると、急におにぎりが視界から消えた。慌てて駆けていくと、道にぽっかりと穴が開いているのだった。大人でもすっかり通れるほどの大きな穴に、その深さを確かめることもせずに迷わず飛び込んだ。
 着地するまでの時間からすると深くはなかったはずなのに、地に足をつけてからあたりを見回すと、そこには空があり、海があった。月が明るい。月光を照り返し、白い砂それ自体が光っているように見えた。砂浜にひとつの人影があった。マダラが海のほうを向いて佇んでいる。おにぎりは道案内を終えて、その場にころりと転がり、動かなくなった。こんなおかしな状況にも関わらず、俺は躊躇いなくマダラに歩み寄った。
 近づくと、マダラは顔を上げた。そして俺はぎょっとした。月の光に照らされたその頬には涙が伝っていた。俺が何も言えずにいるあいだにもマダラはゆっくりと瞬きをし、そうしてまた幾筋かの涙をつるつると流した。
 マダラの顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。無表情の上に静かに涙を浮かべてこちらを見つめるだけだった。どうしてか、哀れっぽく顔を歪めて涙されるよりも、よほど哀れに見えた。はっとするほど無防備で、胸を突くような悲愴な涙だった。
 そのとき、生まれて初めてマダラの顔を見たような気がした。現実から隔絶されたこの空間で、マダラに関する既成概念を通さずに、初めて純粋な顔の造作を認識したように思った。きれいだな、と頭のどこかでのんきに思った。
「……あそこにイズナはいない」
 マダラはようやく言葉を発した。
「あの墓の中は、空っぽなんだ」
 お前ももう行かなくていい。マダラはそう言い捨てて、暗い海の中へざぶざぶと入って行く。
「おい」
 マダラを追いかけようと海のほうへ振り返って異変に気付いた。
 白く輝いていたはずの月が赤く染まり、見たことのある模様が浮かんでいた。そして俺は、知るはずのないその月の意味を、マダラがやろうとしていることを既に知っていた。
 俺はようやく気が付いた。夢の中で夢から覚めたような心地だった。いや、本当はもっと前に気付いていたようにも思う。それをようやく認めるしかなくなっただけだ。知っていて当たり前だ。これは亡者の呪いなんかじゃない。

 マダラの夢だ。マダラの心そのものなのだ。

「待て!マダラ!」
 マダラを追いかけて海に入る。その冷たさに全身が強張る。マダラはこちらを一顧だにせず波を立てながら進み続ける。でもそんなの今更おかしなことだと思った。マダラが俺を呼んだんだから。
 どうして俺だったのかわからない。それでも、マダラが回りくどい方法で俺のことを呼んだから、いくつもの朝を共に過ごしたんだ。あのどうでもいいような稀有なような、ささやかな時間たち。


 俺と過ごす、ただあれだけの平穏な時間が、お前が現実に踏みとどまる理由になり得るものだったのか?
 この常夜の世界の寂しさ、この海の冷たさを堪えてまで。


 そんなの俺には荷が重すぎると正直思う。それでも、もし。
 もし本当にそうなら、まだ終われない。
「マダラ、行くな!」
 少しずつ距離が縮まり、腕を目いっぱい伸ばすとマダラの腕に届いた。強く引っ張ると、やっとマダラの顔が見えた。強く腕を引かれた拍子に、涙が宙に舞うのが見えた。
「もう無理だ。俺はあそこにはいられない」
 マダラはそう言ってまた涙を流した。
「いろ。いてくれ。お前と兄者と、俺たちの里に、ずっと」
 マダラは感情の見えない顔で頬を濡らすだけだった。高い波が押し寄せて、俺をマダラから引き剥がそうとする。

 ダメなのか?もうどうしろっていうんだ!

「マダラ!」
 絶対に離れないように指先にありったけの力を込めた。もう指の感覚がない。マダラの濡れた瞳を必死に見つめる。
「俺のために毎日おにぎりを作ってくれ!!」
 マダラが目を丸くして、それからぱちくりと目を瞬かせた。急速に海が凪いで、月がしゅるしゅると沈み、水平線の向こうから太陽の気配がし始める。




 と、思ったら本当に朝だった。

 障子から差し込む白い光、鳥の囀り。いつもと同じ朝。
 しばらく呆然と天井を眺めていた。
「……行かないと」
 今日、マダラはきっと来る。

 すっかり歩きなれた墓地への道をひとり歩く。いつもより少し時間が遅い。いつもより長く眠ったということのはずだが、まったく疲れは取れていない。それどころか夢の中で余計に疲弊した気分だった。
 墓地の入り口にたどり着くと、ちょうどマダラがやってきたところだった。
 俺に気が付くと、俯いたり顔を上げたり何か言おうとしてやめたりと、ひとしきり動揺したあと、ついに顔を赤くして固まってしまった。それでもその手におにぎりの包みがあるのを見て、なんだかくすぐったい気持ちになる。
 真っ赤な顔で棒立ちになっているマダラに歩み寄って腕を伸ばす。 咄嗟に拒もうと突き出された手も、何か言おうとしてわなないた唇も、心の弱さもぜんぶ腕の中に収めて口づけた。そうしてみて初めて知った。俺たちはぴったりだった。抱き締めたからだの厚さも、鼻の高さも、唇の場所も。 まるでずっとそれを待っていたみたいに。

 こんな都合のいいことがあっていいのだろうか。いくつもの罪と血と涙を、ただ心だけですべて帳消しにするようなことが。

 丘から墓地を通って風が吹き抜ける。擦れ合う木の葉の音は、誰かの笑い声にも、啜り泣く声にも似ていた。
 俺たちの行き先はきっと地獄だ。でもそれがなんだ?

 そっと瞼を上げると、マダラの睫毛が震えるのが見えた。

 それも悪くない。全然悪くないな。




----------
2016.04.03
『つみびとたち』
作業中のBGM:サンボマスター『I'm in love 光る海』/AKINO『イヴの断片』
サンボマスターはまじ扉マダだからみんな聞いて~~~!!!!!


←戻る
inserted by FC2 system