REBIRTH

※ほぼオリジン本物シャアとガルマの話。赤い彗星のシャアはほとんど出てきません。
※本編後の話
※本物シャア一人称




 その男の話をすることを僕らはずっと避けてきた。
 僕らというのはつまり、僕とガルマ・ザビのことだ。別にはっきりそうと決めたわけではない。けれども、共に生活するなかで徐々にその男を中心とした不自然な空白は顕著なものになっていき、ついに彼とのあいだの暗黙の不可侵条約のようなものにまでなった。僕らはその空白の存在に気付いてすらいないかのように振舞った。
 僕らがその男の話をしたのは二度だけだ。
 たったの二度。おかしな話だ。その男だけが僕と彼を結びつけていたというのに。
 僕らはその男にひどい仕打ちを受けたという点で同類だった。いわば赤い彗星被害者の会だ。その不名誉な会員としての先輩である僕のもとに彼がやってきたのは、僕がその男に人生を台無しにされてから三度目の冬のことだった。雪は降っていなかったが、木枯らしの吹き荒ぶ寒い日だったことを覚えている。最初にその男の話をしたのはまさにその冬の日のことだ(結局彼はそのままこの家に居着き、済し崩しに僕の同居人となった)。
 二度目は、ある休日の昼下がり、彼が唐突に禁を破って滔々と語り始めたのだった。
僕には唐突に感じられたわけだが、きっとなにかしらきっかけはあったのだろう。あの日はよく晴れていて、庭の物干し竿にはシーツが干されていた。僕らはそのたなびく真っ白いシーツを部屋の中から見るともなしに見ていた。僕はそのシーツを通して、穏やかで美しい午後のゆったりとした時の流れを見ていた。彼がなにを見ていたのかはわからない。あるいは、きっかけは表を散歩する犬の足音だったのかもしれない。そのときリビングに音を立てるものはなにもなく、犬の爪のかしゃかしゃと鳴るのが聞こえるほどに静かな午後だったから。それとも、僕の座っていた椅子のうしろに置かれた観葉植物の茶色がかった葉が彼の琴線に触れたのだろうか。向かいに腰掛けていた彼からはその枯れかけた植物がよく見えたはずだ。それか、もしかするとあの日、あの時間帯の窓から射し込んでいたまろい陽光の角度や温度のせいだったかもしれない。時間帯といっても、リビングには時計が無いから、正確には何時だったかわからない。というか、この家には時計がないのだった。もともと僕は腕時計を頼りにしていたし、同居人となったガルマも僕の習慣に合わせた。不思議なことに、僕たちの時計は合わせても合わせてもズレていた。どうやら僕の時計は五分くらい遅く、彼の時計は逆に五分くらい早いようだった。それを織り込み済みで行動することに慣れていたから、特に困ることはなかったのだが。とにかく、あの日、あの午後のなにかが彼に語らせたのだ。あの男と彼にまつわるさまざまなことを。

 僕らのあいだにはとうに空になったふたつのティーカップがあった。そのティーカップ越しに彼は僕に語りかけた。
「僕とキャスバルが出会ったのは、もうずっと昔のことだ。物心がついたときには既にそこにいた」
 微笑む彼は美しかった。僕は彼が非常に穏やかに禁じられた名前を口にしたことに驚いた。彼はあまりにも和やかにそれをやってのけたため、僕は数秒のあいだその名前があの男のものであるということを飲み込めなかったくらいだ。僕は何回かまばたきしたのちにその音の指し示すことを理解したが、なぜその名前を口にしたのかと彼を問い詰めることはできなかった。それは僕らの間の暗黙の了解を可視化する行為だ。それは協定を破ること以上に僕らの関係を取り返しのつかないほどに壊滅させる行為であるように思われた。もしも禁句を口にしたのが僕のほうであったならば、ガルマは僕らの関係にヒビを入れることなく僕を問い質せたかもしれない。けれど僕には到底できる芸当ではなかった。あれは地球で暮らし始めてから十年目の春のことだったから、僕は(ということは彼もだが)28歳だった。自分になにができてなにができないか、ある程度は認識し、できないことについてはとっくに諦めを覚えていた。だから僕はただ彼の言葉に頷いた。
「僕と彼が出会うのは早すぎたと、今でもよく思う。彼に出会う前の自分というものが少なすぎる」
 それから彼は、あの男との数々の思い出を語った。幼い日々のことや、士官学校で再会してからのこと。彼はあの男が自分を陥れたくだりもなんの躊躇いもなく(少なくとも僕の目にはそのように映った)微笑みすら浮かべながら話した。それらのエピソードは僕にほとんどなんの感慨ももたらさなかった。もちろん、なぜそんな話をあの男を憎んでいるはずの僕に嬉しそうに話すのだという批判的な感情は終始くすぶっていた。しかしそれよりも、ただひとつの言葉が僕の感情を揺さぶったことばかりが鮮明に記憶に残っている。それはこのようなものだ。
「彼は僕にとってただ一人の人間だ。いまも昔も」
 なぜこの言葉が僕の記憶にここまで重々しく留まっているのだろう。理由はわからないけれども、僕は言葉だけでなく、そのときのガルマの表情や指の位置のひとつひとつ、窓から射し込んでいた光の角度さえも覚えている。
 あの感覚は一体なんだったのだろう。彼がその言葉を紡いだ瞬間、まるで時間が止まり、空間がまるごと一枚の写真になったかのように僕の目に焼き付いた。ひとはいつも脳の何割かしか使っていないというが、あの瞬間、僕の脳は隅から隅まで十全に活動していたように思う。器官のすべてが研ぎ澄まされ、僕は地球の裏側の夜空を流れる星の最後の声さえも聞くことができた。そうして知覚したあの瞬間の世界は、いまも鮮やかなまま僕の頭のなかにあるのだ。きっと死ぬまでここに留まり続ける、そう思っていた。しかし、その確信は彼によって不意に覆された。それが昨日のことだ。


 ところで、僕の心に残る彼の声はもう一つある。それは他でもない、僕の名前だ。
 彼にとってその記号は二重の意味を持っていた。彼は出会ったときから一貫して僕をその記号で呼んでいた。
 はじめて僕の前に現れたとき、玄関先で彼はまずそれを口にした。シャア・アズナブルさんですか。それが彼の第一声だ。
 話は少し脇に逸れるが、僕も彼もあの男の策略によって社会から抹殺された人間、いわゆる戸籍喪失者なのだ。僕は事故のあと逃れて来たなんの伝手もない地球で二年がかりでどうにかこうにか偽造IDを手に入れ、新しい身分と名前で細々と生活していた。それは戦争により行方不明者が増えたことで、僕が探し始めた当初よりも遥かに容易なこととなっていた。とはいえ、そのような非合法の取り引きに身を投じるには非常に煩雑で厄介なプロセスが必要だ。何度か失敗しながら、僕はなんとか戸籍を入手するに至ったわけだが、ガルマはなんとそれをひと月でやってのけていた。彼が僕の名を初めて呼んだあの冬の日に僕に語ったところによると(というか、それ以降僕らはお互いの生い立ちについて触れることはほとんどなかった)、彼が社会的に戦死者になってから三ヶ月後、なにも知らない親切なアースノイドの家庭で意識を取り戻したときには既に戦争は終わっていた。彼は身分を隠したまま半年間を療養に費やし、傷が癒えてからはそのアースノイドの家族の農業や酪農の仕事を一日中手伝った。その家の若い男衆は徴兵されてまだ帰っていなかったため、若い彼の体力は重宝された。そうしてじゅうぶんに恩義に報いた、あるいはじゅうぶんでないにせよ一定の義理は果たしたと判断したときに、彼はその家を出たのだった。それから彼はその才智を以って――彼の頭の出来がすこぶる好いことは一緒に暮らし始めてすぐにわかった。認めたくないが、彼のそういった部分は共に暮らしていたときにごくたまに見せたあの男の冷めた瞳を思い出させた――偽造IDを取得し、幼い時分に断絶されてから再会するまでのあの男の足取りを調べ上げ、そして名を変えていたにも関わらず僕のもとにやすやすと辿り着いたというわけである。その間約ひと月。まったく、僕の苦労はなんだったのかと馬鹿馬鹿しくなる。とにかく僕が言いたいのは、彼が僕の家を訪ねたとき彼は既にあらゆる下調べや論理的思索を重ねて、僕がその人物であることにほぼ間違いはないと知っていたはずである、ということだ。わかり切ったことを、あの男と瓜二つの僕の顔を見て更に疑いの余地などなくなっていたであろうことを、彼はあえて確認したのだ。未来の日記の一文をゆっくりと指先でなぞるかのように。それは彼にとって、予定調和の均衡を保つためのひとつの儀式だったのだと思う。彼はその名を呼び慣れているように見えたし、呼ぶ声には親密さすら滲んでいた。けれど確かなよそよそしさがあった。それは越してきた新しい隣人のはじめの挨拶であり、親友のよくある突然の訪問のひとつであった。それまでそんなふうに名前を呼ばれたことのなかった僕は困惑させられた。まだその声に含まれた彼の心情や過去を一切知らなかったにも関わらず、その自然でいびつな音への違和感だけを肌で感じ取っていた。
 不思議なことに、彼の口から紡がれる僕の名前に含まれる親密さとよそよそしさの比重は、ついぞ変わることがなかった。出会ったときからそれぞれ等しい重さを保っていた。僕と過ごす時間が増えることによって、あるいは彼の心の揺らぎによって、それが変わるということは一切なかった。だがそれも昨日までの話だ。
 さて、僕らの関係のなにもかもが覆された昨日の出来事を、僕はそろそろ語らなければならないだろう。


 僕たちは二人とも昼の仕事をしていたから、朝食の時間はたいてい被っていた。出勤前の慌ただしい朝の背景にはいつもニュース番組がついていたが、二人ともそれに目を留めるほど時間の余裕はなく、時計替わりに流しているだけだった。けれど、昨日の朝は違った。僕らの暗黙の不可侵領域が、あちらのほうから僕らの朝に飛び込んできたのだ。
 それはほんとうに突然だった。あの男の名前が聞こえたとき、僕らは二人とも食器を手にしていたが、それを取り落とすとかいうことはなかった。僕らがそんな事態を心のどこかで予想していて心の準備ができていたからとか、そんなことでは全くない。反応をするにはその音を脳内の辞書と照らし合わせるのが間に合わなかっただけだ。結果として、僕らはただ静かにテレビに目を向けた。この家において存在を抹殺されて久しかったその男の名前が、こんなふうに堂々と平和な朝の生活に割り込んでくるということがにわかには信じられなかった。僕らはテレビを見ながら静止していた。僕は流し台に食器を持って行きかけた体勢のまま、ガルマはコーヒーカップを口に付けようと持ち上げたまま、微動だにしなかった。
 それはあの男が新たな勢力として政治の表舞台に再来したというニュースだった。リポーターの背で、あの男の芝居がかった演説の映像が繰り返し流れた。僕らは呆然とそれを見ていた。僕たちはうろたえてはいなかった。その余裕さえなかったというのが正しい。いや、彼についてはわからないが、少なくとも僕はそうだった。

 それからどうやって家を出て職場まで行ったのか覚えていない。ただ、僕が家を出たとき、まだガルマはテレビをじっと見ていたと思う。その画を覚えているわけではない。そうだったんじゃないかと僕が思うだけだ。

 僕は機械的に、習慣に頼り切ってその日の仕事をこなした。朝から頭はぐらぐらしっ放しでずっとぼんやりとしていたが、職場の誰にも指摘されなかった。まあそれなりにまともに業務を終えたのだと思う。習慣は能力であると言った人間がいるが、まったく以てその通りだった。

 そんなふうにしていつのまにか一日を乗り切っていた僕は、気がつくともう家の前に居た。激しい雨が降っていることと、僕がちゃんと傘を差していたことに、玄関前で傘を閉じたときにはじめて気づいた。窓から灯りが漏れていたから、彼が先に帰って来ていることがわかった。今にして思えば、ガルマはそもそも職場に行かなかったのかもしれない。朝あんなことがあったにも関わらず、ただいま、と何気なく口にできたのもやはり習慣の賜物だったろう。彼は朝と同じようにリビングの椅子に落ち着いていたが、朝と違ってテレビはついていなかった。雨の日の蛍光灯は妙に寒々しく部屋を照らしていた。そして、彼のかたわらには久々に見る彼の旅行カバンが収まっていた。彼はこちらを振り向き、おかえり、と言って軽く口角を上げた。
「この家を出ることにした」
 彼は天気の話でもするかのようにそう告げると、カバンを持って立ち上がり、玄関に立ったままの僕の目の前にやって来た。
「今夜の最後から二番目の便で宇宙に上がる。残っている私の荷物は、申し訳ないが次のゴミの日にでも捨ててくれ。あと、少々強引に辞めたから職場から電話があるかもしれないが、別に出なくていい」
 彼の口調はいつも通りで、特に冷たいわけではなかったが、別れに対して感傷的になっているふうでもなかった。敢えて言うならば些か事務的で淡々としていた。僕の心情も似たようなものだった。
「そうか」
 ガルマはほんとうに出て行くのだろう。彼の言葉を信じていないから動揺がないのではなかった。やると言ったらやる男だ。そしてきっと、彼の目的(それが何かはわからないが)を果たすか、果たさないまでもそれに近いところまで到達するのだろう。だからといってどうということも無いのだった。僕に言えることはなにもなかった。そもそも言いたいことがなかった。
 彼はカバンを床に下ろして、真正面から僕をじっと見つめた。僕は何も言わずその視線を受け止めていた。雨の音も聞こえず、家の中は水を打ったように静かだったが、彼の視線は非常にうるさかった。
 彼はいつも夢の向こう側にいるかのように僕のことを見ていた。別の世界へと続く鏡を覗き込むかのように。
 それなのに、そのとき彼はたしかに僕を、同じ地に足を着けて見つめていた。一体どういう風の吹き回しだろう、気詰まりだからもうさっさと出ていってくれと正直思った。耳に痛いほどの静寂のなかで、時の感覚は曖昧だった。彼が口を開くのが、やけにゆっくりと僕の目には映った。彼は、僕の名前を音にした。

 夢と現実のあいだから聞こえるような、輪郭の滲んだふたつの像を描く彼の呼び声はもはやなかった。それはただ僕だけを指す音だった。僕だけを目掛けて投げ付けられた、無遠慮なまでに鮮明な記号だった。

 ただそれだけ。たったそれだけの音が、僕の60兆個の細胞をばらばらに崩し、そのすべてを生まれ変わらせた。

 久しぶりに真にその名を呼ばれてみて愕然とした。その音の奇怪なことといったらなかった。まるでかくれんぼのとちゅうで、おとなたちの会議の場に迷い込んだ哀れな子どものように場違いだ。

 ちがう。そう口にしたかったのに、再生したばかりの声帯は言うことを聞かず、かすかに息を漏らしただけに終わった。
 僕がなくしたのはそんなものじゃなかったはずだ。
 そう言葉にできずに立ち尽くす僕の手に、ふいにガルマの手が触れた。彼は無言で僕の腕時計を外した。そうされて初めて、彼の手首からも時計が消えていることを知った。彼の時計があったところには、うっすらと日焼けの跡がついていた。彼は僕の時計を自分の上着のポケットにすとんと落とした。
「カレンダーも替えろよ。あれ何年前のだ?」
 二の句の継げない僕を尻目に、彼はふっと息で笑った。
「ただ知っているだけだと思っていた。君のこと。君の、好きなものとか、嫌いなものとか、癖とか、習慣とか」
 ガルマは部屋の中をぐるりと見渡した。そして俯いた。
「そんなわけないのにな」
 独り言のように微かな声だった。けれど、静寂に包まれた室内ではまっすぐに僕の耳に届いた。
「君の映画の趣味を子どもっぽいと思っていた。毒々しい色のジェリービーンズをうまそうにかじるのを見て、内心いつも呆れていた。年に合わないファッション誌を購読しているくせに、そこに載っているような服を着ないことを不思議に思っていた。そういうことが、ちゃんとあったんだよ。自分でもびっくりするけど」
 ガルマは一息に言った。彼の表情は、俯いていて見えなかった。
「気付くのが遅かったと思う。それでも遅すぎることなんかない」
 顔を上げると、彼は少し決まりが悪そうに微笑んだ。そしてコートを翻して玄関から出ていった。外から激しい雨音と湿った冷気が流れ込んできた。扉が閉まると、部屋には再び静寂が落ちた。


 そして僕は、再びこの家に一人になった。今朝目を覚まして、彼が出て行ったことを思い出すのに時間がかかった。彼の不在が受け入れ難かったというわけではない。むしろその逆だった。いなくなった途端に、はじめからずっと一人だったように思えた。不在そのものが欠落していた。
 それでも、最後の会話だけは鮮明だった。あのときだけは、ガルマは確かにここにいたのだ。

 ガルマが呼んだ僕の名前が耳によみがえった。僕の名前だと思っていたもの。

 失ったとばかり思っていたのに、ついに僕のもとに戻ってきたそれは、胸にぽっかりと空いた穴の形とあまりにも異なっていた。そして僕は気付かされた。この鍵穴に合う鍵は、もうこの世のどこにも無いのだということに。

 あれは本当に喪失だったのだろうか。これは本当に不在なのだろうか。
 僕がずっとこの空洞に見ていたものは、一体なんだったのだろう。

 鏡には、一人の男が映っている。この男の名前を僕は知らない。

 遅すぎるということはないと彼は言った。僕には、そうは思えなかった。結局、また新しく失っただけだ。夢とかまぼろしとか、そんな風に呼ばれるものを。

 いつも通り、ニュースを流しながら朝食をとっていた。どんなに元気がなくても、仕事は無くならないし、時間は進むのだ。トーストをもさもさと咀嚼していると、昨日と同じニュースが目に留まってしまった。迂闊だった。しかし、今はテレビしか時計の役割を果たすものがないのだから仕方がない。
 僕はイライラしつつも、ついその男の映像を見てしまう。まじまじとこの男の顔を見ていたら、だんだんと苛立ちよりも違和感が大きくなってきた。テキサスコロニーで、僕とこの男がシャアとエドワウだったころ、僕らの顔はとてもよく似ていた。それなのに、いまのこの男と僕はぜんぜん似ていない。それとも、あの頃からこんな顔だっただろうか?
 そう考えていたときに、不意に思い至った。
 僕のそれは僕の名前だったが、ガルマのそれはこの男だったのだ。

 僕たちがそれぞれ後生大事に抱えていた空洞のかたちは、長い時間をかけて歪んでしまって、もはやそこから切り出されたはずのそれそのものの陰ですらない。そのことに、僕たちはそれそのものを突き付けられるまで気付けなかった。この男が彼のそれそのものだったのだ。

 点と点がつながっていくのを、何かの落ちる音が遮った。音のしたほうに目をやると、玄関に手紙が落ちていた。うちには郵便受けがないから、配達員は新聞受けに入れて行くのだ。しかし実際には手紙が来ることはほとんど無い。珍しい侵入者を怪訝に思いながら拾い上げる。差出人の名前はなく、宛名は僕のものだった。僕の偽名。
 封筒には奇妙な凹凸があった。封を切って逆さにすると、一枚の紙と見慣れた鍵が手のひらに落ちてきた。

『鍵を返すのを忘れていた。すまない。
               ガルマ』

 紙にはそれだけが書かれていた。旅客機のイラストの印刷された小さなメモ紙だ。空港で鍵に気が付き、その場で適当なメモ張を買うガルマの姿が目に浮かんだ。
 僕は封筒を裏返し、もう一度宛名を見た。
 彼にこの名前で呼ばれたことはなかった。彼はいつも僕のことをシャアと呼んでいたから。
 これは偽名だ。いや、偽名だと思っていた。
 けれど、偽りだと信じ続けていたことが、真実だということもあるのかもしれない。
 本物の名前は奪われてしまったが、本物のための空白は胸にいつもあると思っていた。でも、僕がどういうつもりだったかなんてことより、今ここにあるという事実のほうが強いこともあるんじゃないのか。本意でないとしても、実際に機能しているということのほうが強いことだってあるんじゃないか。ひと一人の思惑なんかが、一体どれほどのものだと言うのだろう。
 だってこうして、手紙も届くんだから。


『ただ知っているだけだと思っていた』

 僕だって、そう思っていた。
 知っているだけ。ほんとうにそうだったのだろうか。そんな状態が、果たして成立し得るのだろうか?

『君の、好きなものとか、嫌いなものとか、癖とか、習慣とか』

『そんなわけないのにな』

 僕も、君にとっての人間のひとりだった。かつて君が言ったことは間違っていた。そういうことなのか?

 それまで聞こえなかった雨の音が唐突に耳に入ってきた。窓や屋根、壁を激しく叩く雨粒の音が部屋を隙間なく満たした。手のひらの鍵の、雨粒のように冷え冷えとした輝きが目を刺した。

 ずいぶんと傍迷惑な告解だ。おかげで僕は、長い夢からすっかり目覚めてしまった。
 しかし、夢と現実などということに、どれほどの意味があるだろう。
 目覚めてしまったからには、とりあえず今はこの現実を生きるしかないのだ。たとえこれが、夢から覚めた夢だったとしても。
「要するに、道連れってことなのかなあ」
 彼のそれと同じく日焼けの跡だけになった手首に、そっと触れた。




**********
Epilogue




 通りかかった公園の、新聞の販売機に硬貨を入れる。早朝の公園は、これ以上はないと思えるほどに健全だ。犬の散歩中の男性、ウォーキングに励む老夫婦、早めの出勤で足早に過ぎ去るサラリーマン。彼らの石畳を踏む音と、鳥の囀り、中央の噴水からの水音が爽やかな風に乗って彼の耳に届いた。そこに、カラカラと硬貨が吸い込まれていく間抜けな音が響く。滑稽なほど健やかな情景だった。
最後の一枚を投入しようとしたとき、木々のざわめきを聞いて彼は顔を上げた。
 噴水を挟んで反対側のベンチに座っていた男性が立ち上がった。彼はそこに人が居たことにはじめて気が付いた。男が歩を進めるたびに、一際高く鋭い靴音が響きわたり、地面を突っついていた鳥たちは空へと飛び立った。噴水を避けるために少し迂遠な軌跡を描きながら、男は彼のほうに向かってきた。いつのまにか、犬の散歩中の男性も、ウォーキングをしていた老夫婦も、急ぎ足のサラリーマンもいなくなっていた。鳥たちさえも息を潜め、いま聞こえるのは流れる水の音と男の足音だけだった。男はついに販売機を挟んで彼の目の前までやって来た。
「よう、シャア」
 男は溌剌とした声を出した。販売機越しに彼の顔に手を伸ばし、サングラスを取り去った。
「それで変装してるつもりか?」
 呆気に取られている彼を見て、男はくすくすと笑った。男は軽く手を振ることでサングラスのツルをかしゃんと閉じた。販売機を回り込んで彼の隣にするりと収まると、彼の胸ポケットにサングラスを差した。
「…ここでは神経質になって変装する必要もない。このコロニーの人々は私に友好的だからな」
 シャアはようやくぽつりぽつりと言葉をこぼした。
「そうやって平和ボケしてると、今に寝首を掻かれるぞ。そうだ、私が君のボディガードになってやろうか?」
 楽しそうに妙な提案をする男に、ようやく平静を取り戻しはじめたシャアは厳しい顔付きを作ってみせた。
「ガルマ、一体何をしに来たんだ」
 ガルマは答えずに最後のコインを無造作に奪うと、何事かを思案しながら指先で弄び始めた。
「別にボディガードじゃなくてもなんでもいいけど。例えば毎朝新聞を持ってくる係とか」
 そう言ってガルマは硬貨を販売機に入れ、蓋を開けて一番上の新聞を手にとった。
「はい、6月1日、の、朝刊」
 ガルマは一面の日付を読み上げ、シャアに新聞を差し出した。
「そんな係、うちには無いんだが」
「だからたとえばって言っただろう!」
 真顔で答えるシャアの肩にばしっと新聞を叩きつけて、ガルマは顔を赤くして怒鳴った。
「もう少しマシな例えがあったろうに」
 シャアは新聞を受け取りながら耐え切れずに噴き出した。ガルマは一瞬むっとしたような顔をしたが、すぐに気を取り直してふふんと笑った。
「まあ、それについてはコーヒーでも飲みながらゆっくり話そうじゃないか。この辺りにいい店はあるか?」
 このコロニーのことはよくわからん、などと言いつつも腕を引いて大股でずんずん進むガルマにシャアは呆れた。土地勘もないくせに、その自信はどこから来るのだろうか。
 公園を出てすぐの交差点で信号に引っかかり、二人は足を止めた。大型トラックが何台か通り過ぎた。
「…私に復讐しに来たのか?」
 反対側の信号に顔を向けたまま、シャアは胸の内にわだかまっていた疑問を口にした。
「そんなわけないだろ。君、さっきの私の話聞いてたか?」
 ガルマは信じられないとでも言うように目を見張った。
「話って、どれのことだ?」
 本心からわかっていないようで、眉間に皺を寄せて首を捻るシャアに、ガルマは頭を抱えた。
「だから…」
 がたがたと積み荷を揺らしながら大型トラックが通りかかった。なにか手を加えたのだろう、標準以上にやかましいエンジン音が鳴り響く。ガルマの声は騒音にかき消された。
 トラックが通り過ぎて、交差点は再び穏やかな静寂に包まれた。トラックに遅れること数秒、黒々とした排気ガスがむわっと漂ってきて、ガルマの髪を揺らした。
「…もういい」
 ガルマは顔の前でひらひらと手を振り、排気ガスを払いながら話を打ち切った。声を届かせるためにお互いに近寄っていた二人はなんとなく離れて、反対側の信号機へと向き直った。シャアは何か言うべきことを探して頭の中の引き出しを手当たり次第にひっくり返していたし、ガルマはただ、早く青にならないものかと思って佇んでいた。重い沈黙を打ち破ったのは、通りすがりのサラリーマンだった。手持ち無沙汰だったシャアとガルマは、自然と彼に目を向けた。電話に向かって怒鳴っている様子からして、サラリーマンはどうやら仕事のトラブルに巻き込まれているようだった。話が違うだろ、とか、それじゃあ困るんだよ、とか、不満も露わに喚いている。彼は大声で通話しながら二人の傍らに並ぶと、そのほうを見もせずに慣れた手つきで信号機のボタンを押した。シャアとガルマは目を丸くした。しばらくして信号が青になり、彼は慌ただしく横断歩道を渡っていった。まるで嵐のような彼を見送って唖然としていた二人は、どちらからともなく顔を見合わせて笑い出した。可笑しさは後から後から湧き出てきたが、信号が点滅しはじめたのを見て二人は慌てて走り出した。向こう岸に着いても、二人はまだ笑っていた。しまいには目に涙を浮かべて、腹を抱えて笑っていた。笑うシャアを見て、変わったな、とガルマは思った。
 前は笑いながら顎を引いても首に皺なんか出来なかったし、片目を眇めるような、もっと左右非対称な笑い方をしていた。
 そして、いまの自分は、今のそれを好ましく思っている。
「なんだ?」
 視線に気付いたシャアは、可笑しさの余韻を目元に残したままガルマに尋ねた。ガルマはしばし考えたが、結局ただ首を横に振った。どうやって伝えればいいかわからなかったのだ。
 彼ならば、きっとわかってくれるだろうに。ガルマは、つい先日まで一緒にいたその人のことを想った。
 なあ、どうやってこの男に伝えたらいいと思う?

 私は、失われた幼い春を追いかけてここまで来たわけじゃないんだ。今日は思い出の続きじゃない。今日は昨日の代わりじゃない。

 あの日、あの朝、あのリビングで。
 もう一度君に恋をしたということを。

「なんでもないさ」
 ガルマは頭を振って、素知らぬ顔で嘯いた。今はそれでよかった。




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fin.
2013.06.02


りくちゃん、お誕生日おめでとうございました!!!!
読みました(拍手)

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