シャアとガルマは食前酒の注がれたグラスを軽く触れ合わせた。ゆったりと満たされたような笑顔を浮かべて自分を見つめるガルマから、シャアは思わず目を逸らす。酒をさっと一口だけ含み、話を切り出した。
「別れてくれ」
 ほんとうは、食事を終えてから話をするつもりだった。だが、今夜のレストランを気に入った様子で、パノラマの夜景を褒め、落ち着いた内装を褒め、きらめくカトラリーを褒め、ウエイターの所作を褒め、果てはナプキンリングまでも称賛して満面の笑みを浮かべるガルマを見ていると、話さずにはいられなくなったのだ。この笑顔と向かい合い、素知らぬ顔でディナーを口に運ぶなどということは、大変な不義であるように思われた。到底血の通った人間のなすべきことではないと。そのためにコース料理ひとりぶん(あるいはふたりぶん)が無駄になろうとも致し方あるまい。
 ガルマはグラスを手にしたまま、すっと表情を失くした。それから瞳に烈しい怒りの色を浮かべたが、瞳の奥をするすると幕が下りていき、激情はその姿を消した。そしてガルマが静かにグラスをテーブルに戻したときには、最早その瞳からなんの感情も読み取れなかった。「よそゆき」のガルマだ。シャアは思った。
「わかった」
 ガルマは穏やかにそう返事をした。その頬には再び笑みが浮かんでいたが、レストランに入ったときとは打って変わって距離を感じさせるそれだった。
 ガルマが仕事のときに浮かべる微笑みだ。ガルマのその完璧で冷たい微笑みをシャアは好ましく思っていたが、自分に向けられるとなると心穏やかではない。
 下手に動けば言葉で滅多打ちにされると思い、シャアは黙っていた。ガルマも沈黙を守ったまま悠然と構えており、シャアは自分の心臓が汗をかいていることに気付かれているのではないかと訝った。他のゲストの立てるごくひかえめなナイフとフォークの音、無音に近いはずのウエイターの足音、そして遠くの下界で車の行き交う音までも聞こえる気がした。二人のテーブルの上には静寂だけがあった。
 ガルマは不意にグラスに手を伸ばすと、シェリーを一気に飲み干した。
「…私が、なぜ、怒っているかわかるか」
 いちどに飲み込んだ酒のせいで、少し苦しげにガルマは言葉を紡いだ。そして空になったグラスを乱暴にテーブルに戻した。
 彼の瞳の中に炎が見えた。たとえば闘志とでもいうべきもの。
 シャアは何も言えなかった。ガルマは足を組み直し、テーブルに肘をつき、両手を組んでわずかに身を乗り出した。これはいよいよ戦闘体制だな、とシャアはなす術もなく観察していた。
「このレストランは素晴らしいな。気に入ったよ。私の趣味に合うこんな店があるなんて知らなかった」
 ガルマは首を巡らせて店内を見回した。その際にたまたま目が合った御婦人に微笑みかけるのをシャアは見た。
「私が怖いのか、シャア」
 ガルマは手の上に顎を乗せて、楽しそうにシャアに尋ねた。
「私の趣味に合わせてこの店を選んだのだろう。私の機嫌を少しでもよくしたかったんだろう?こうまでしないと言えなかったのか?そんなに私が怖いのか?」
 シャアに弁解の隙も与えず、ガルマはまくし立てた。その瞳は獲物を捉えた猫のように細められていた。
「知らないうちにいつからか恋人に怖がられていたなんて、とんだお笑い種だ。そう思わないか?」
 ガルマは目でウエイターを呼ぶと、コートを持って来るように頼んだ。ウエイターが立ち去ると、ガルマはシャアに向き直り、笑顔を引っ込めた。
「馬鹿にするなよ。私が君に振られてヒステリックに追いすがるとでも思ったのか?こんな店を用意する必要はなかった。君に怖がられているのに、これからも続けられると思うほど私は愚かではないんでな」
 ガルマは、シャアの前でだけ見せるぞんざいな口ぶりで告げた。シャアが口を開くと、ガルマは先に言葉を重ねてそれを遮った。
「心配するな。もちろん、別れよう。私たちはもう終わりだ」
 ウエイターが戻ってきた。ガルマは席を立つと、コートを脇に抱えて入り口に向かった。途中でシャアを振り返り、底意地の悪い笑みを浮かべた。
「せっかくだから君は食べていけよ。この店は、君の給料からするとかなり高いだろう?私も今度誰かを連れて来ることにしよう。もちろん、ただの食事として」
 そう捨て台詞を吐くと踵を返し、今度こそ振り向かなかった。

 一人残されたシャアは、ずるずると背凭れに寄り掛かり、深くため息を吐いた。そして一口飲んだきりそのままにしていた食前酒の存在を思い出し、口をつけた。まろやかで香り高いそれを少しだけ舐めると、またため息を吐いた。
「…帰るか」
 あそこまで言われて一人で食事をする気にはなれない。チェックを済ませて重い腰を上げると、ふと足元に丸まった布を見つけた。拾い上げて広げてみると、来るときにガルマがしていたストールだった。そういえば帰るときにはしていなかった。シャアは三度ため息を吐いた。
 わざと残していったのだろうか。そんなことを言えば、またガルマや馬鹿にするなと言われそうだが、偶然にしては出来すぎている。しかし、こういう信じ難いタイミングで抜かるのがガルマなのだ。  どちらでも同じことだと思い直した。どうせ自分はこれを捨て置くことはできない。
 私が振ったはずなのに、どうして私が追わされているのだろうか。釈然としないものを覚えながら、シャアは店を後にした。




------------
2013.06.19


読みました(拍手)

←戻る
inserted by FC2 system